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『映画ドラえもん のび太の宇宙小戦争2021』感想覚書

 本作『映画ドラえもん のび太の宇宙小戦争2021』は1985年に公開された『ドラえもん のび太の宇宙小戦争』のリメイク作品だ。

 以下はその鑑賞感想をだらっと覚書的に書き連ねたもの。

 原作や旧映画版からの変更点や物語のあらすじ・結末等のネタバレ満載なので、ご注意を。

 

 

 自分は藤子・F・不二雄原作の大長編『のび太の恐竜』〜『ねじ巻き都市冒険記』の中では『宇宙小戦争』が一、ニを争うくらい好きかもしれない。

 大長編シリーズ特有の「非日常が日常の中へ侵攻してくる」描写の見事さや藤子FスピリットのSF(すこしふしぎ)を体現するリアリティと外連味のせめぎ合い等、物語単体として秀逸な出来だと思うし、1985年の最初の映画版で流れた挿入歌「少年期」の名曲ぶりも作品の魅力を多分に底上げしている。

 また余談だが自分が人生で最も影響を受けたアニメ作品の一つである『UN-GO』の中編劇場版でも「少年期」が印象的な場面で歌唱されており、そこから逆流して本作がさらに好きなったというのもある。

 

 そんな風に非常に思い入れのあるために本作のリメイクが発表された時は期待半分不安半分だった。2006年にリニューアルされてからのドラえもん映画シリーズは作画やデザインワークこそリッチになったものの物語やテーマ性が当たり外れが激しいものだったので……。

 しかしいざ観に行ってみれば、原作漫画や旧映画版から描写を現代的にブラッシュアップしキャラや物語展開を新たに一捻りすることで作品全体に一本筋を通す……という、少なくとも自分にとっては理想的な出来映えのリメイクになっていた。

 そして……現実の世界情勢と数奇なリンクを起こしており、作品の良し悪しの次元を超えて「今」「ここ」で自分が観たこと自体に強烈な意味を生じる、否応なく記憶に焼き付く映画鑑賞体験となった。

 

  あとすごくどうでもいいんだけど、本作のタイトル「宇宙小戦争」じゃなくて「小宇宙戦争」ってミスタイプしまくらない? 元々英題も「リトル(小)宇宙戦争(スターウォーズ)」だし、紛らわしい!

 

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 原作で物語はのび太達がミニチュア特撮の戦争映画を撮影する場面から始まる。ここが藤子F先生のプラモや映画への憧憬が詰まった出だしで、旧映画版ではさらにオープニング曲が流れる中数々の映画パロを映すという風に原作の冒頭を上手く膨らませていた。

 今回のリメイク版では撮影現場にほぼ最初からドラえもん出来杉くんが協力し、ひみつ道具を使ったハイクオリティなミニチュア撮影が展開される様を丹念に描いていく。水槽に色水を落としてその水煙を上下逆さまに撮ることで砲撃の爆煙に見立てたり、のび太達がスモールライトで小さくなってミニチュアセットに入るとその風景が実写(風のCG?)になっている等、リメイク版スタッフが旧映画版どころか原作に「藤子F先生、自分達はここまでやりますよ」とガチンコで挑んでいるような凝り様で、ここでもう「今回のは気合が違うぞ」と圧倒された。

 

 そしてのび太達のもとへ遠い星の軍事クーデターから脱出してきた少年大統領のパピがやってきて、宇宙をまたにかけた大冒険が始まるわけだが……。

 劇場鑑賞して改めて思ったのは、原作ストーリーの強固な魅力的構造だ。

 当初ミニチュア特撮での戦争映画という「自分達とはサイズの全く違う架空の戦争」の世界に興じていたのび太達が、まさにそのミニチュアサイズの世界に生きる宇宙人と邂逅する。自分達も彼らに合わせてスモールライトで小さくなり独裁者の手に落ちたピリカ星を協力することで、のび太達は紛れもなく本物の戦場の中で何度も生命の危機に遭い、敵方の機関PCIA(ピシア)と手加減なしの情報戦を繰り広げることになる。そしてクライマックスではライトの効き目が切れたことにより彼らは元の大きさを取り戻し、周りの世界は再び自分達にとって何の危険もないミニチュア特撮と同義のものになる。そこからはのび太達の無双状態が展開し、一方で立ち上がったピリカ星の市民達自身の手で主権は独裁者から奪還されるという決着が果たされる……。

 のび太達地球人とピリカ星人のサイズの違いを「世界の違い」として表し、向こうの世界の危機に助力するものの本当の決定的な勝負どころは彼らに任せるという絶妙な塩梅。頭脳明晰な敵を相手取ったぎりぎりの戦い。ミクロとマクロを往還するダイナミズム。

 このフォーマットを崩さなければどうリメイクしても面白いに決まっているのだ。

 

 しかし今回リメイク版のスタッフは守りに入らず、原作に大きくメスを入れてみせた。

 のび太達が敵のピシアに囚われたパピを救出するためにピリカ星を目指して地球を発つのが原作のストーリーだが、リメイク版ではパピが捕まる寸前にのび太達が間に合いピシアはピリカ星に帰還してしまう。

 では彼らはどういう理由でピリカを目指すのかという空白に入れ込まれたのが、パピの姉「ピイナ」。彼女が人質にされていることがパピがピリカ星に戻る動機付けになり、そして彼女自身の存在がパピが大統領である前に「弟」ひいては年端もいかない」子どにも」であることがクローズアップされ、ピイナに面影に似たしずかへの反応で実際に彼の年相応ぶりが如実に伝えられる。また、原作通り本物の戦争を前に怖気付くスネ夫にパピが一介の子どもとしての思いを吐露する等、原作には元々存在しなかったキャラや展開を追加し組み合わせることが全てパピの等身大な人間性を表現することに集約されている。

 また一方で、パピがピシアに拿捕され一方的な裁判を受けるだけの法廷で独裁者ギルモアへ市民による反逆を予言する場面が、リメイク版ではピリカ星中に放送される戴冠式の場でパピが満を持して独裁を糾弾し市民に直接立ち上がることを呼びかけるものへと翻案されている。その際にパピの姿がギルモアの後ろのスクリーンにより大きな姿で映し出されるという「演出」がなされており、彼もまた確かに一種のアジテーターであることが描写されている。

 ちなみに自分は原作でしずかちゃんがたった一人でで戦場に赴こうとする際に独白する「そりゃあわたしだってこわいわよ。でも……。このまま独裁者に負けちゃうなんて、あんまりみじめじゃない!!」という科白が大好きなのだが、リメイク版でその場面では「独裁者」というワードは省かれていた。色々な事情があったのだろうと斟酌しつつもやはり内心残念に思っていたら、パピの独裁者糾弾の演説を視聴した子どもが父親に「『独裁者』って何?」と問いかけるという一幕が出てきて、むしろより切迫した表現にしてきたなと舌を巻いた。

 市民によるギルモア打倒が為された後ようやくピイナに会えたパピが彼女の胸であげる慟哭が市民の歓声に埋もれていくシーンは、このリメイク版の全てが結実した、歴代ドラえもん映画の中でも屈指の名場面になったと言って差し支えないだろう。

 

 長官ドラコルル率いるピシアの敵としての魅力も原作から損なわれていないだけでなくより増してさえいた。たとえばのび太達が隕石に見せかけて戦車でピリカ星に侵入する場面、原作では地表に激突寸前で反転したことで地震計に記録が残らずピシアに見つかる……というものだったが、今回はまずのび太達が戦車の砲撃で落下の勢いを相殺&地震計に衝撃を偽装するというより優れた策を使い、それでも衝撃の規模への違和感からドラコルルが感づくという、敵味方両方の株を落とさずさらにクレバーな展開にするという見事な改変だった。

 あとリメイク版でのギルモア、威張っていたところへ攻撃をくらってぐぬぬと唸るシーンがやたら多くて何か半沢直樹チックだな〜とか思っててエンドロールでCV確認したらマジで香川照之じゃん! パピが「土下座しろーっ!」って叫んでた気がしてきた。

 

  ピリカ星での冒険を終え地球に帰還したのび太達は、その一部始終を「映画」としてまとめて出来杉くんに鑑賞させる。「等身大⇄ミニチュア」の行き来を「地球⇄ピリカ」や「日常⇄非日常(戦争)」に擬えてきた物語の果てに、「現実⇄虚構(映画)」に着地させる、確かに最初はそこから始まったのだから、そういう意味でも「行って、帰ってくる」原初の物語パターンの〆としてこれ以上はないだろう。

 

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 というわけで、非常に楽しく堪能した映画だった。

 さて、ここからは現実の話を……したいところだが、悲しいかな自分にはあまりにも言葉が足りない。本作と今2022年3月22日深夜時点の国際情勢を早計に結びつけて何か言おうとするのはあまりにも危なっかしい。

 何故なら、現実では戦争はメディアの向こうの異星のように遠い場所にあるのではなくメディアそのものが真偽の入り乱れた情報の弾丸が飛び交う戦場だから。自分はそこへSNSやこのブログを通して半端に等身大の自己を浸してしまっている。

 それでも、自分は否応なく本作をこの現実と地続きのように感じてしまい、パピの「自分心に嘘をつくな」「独裁者に抗え」という演説に胸を熱くした。せめてその感情にだけは向き合わなくてはいけないだろう。

 そう、この映画は「自分が一方的に楽しんで観ていたフィクションから目を向けられた時、あなたはどうする? 何を思う?」と真剣に問いかけてき作品だったと思うのだ。それは紛れなもなく藤子・F・不二雄が大長編やドラえもん本編で幾度となく読者に発してきたものだ。

 答えや結論をすぐに出せるはずもない。まずは問いかけてきた者と目線を合わせなくてはいけない。何も言わず目をそらすことだけは、してはいけないはずだ。