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『ぼっち・ざ・ろっく!』×『BLEACH 千年血戦篇』×『機動戦士ガンダム 水星の魔女』:乱反射する親子像

 『チェンソーマン』『スパイ×ファミリー』『モブサイコ100Ⅲ』『Do It Yourself!!』『うる星やつら』等、2022年秋クールのTVアニメは人気原作を満を持してアニメ化した大作や往年の名作のリメイクからオリジナルの意欲作までが観切れないほど数多く揃った、非常に楽しい3ヶ月だった*1

 中でも自分は『ぼっち・ざ・ろっく!』『BLEACH 千年血戦篇』『機動戦士ガンダム 水星の魔女』の3作品がお気に入りだった。作品全体に通してハマっていたのはもちろん、特に最終話でどうやって物語を終わらせて主人公を際立たせるのかが三者三様素晴らしかったのだ。ちなみに『BLEACH』と『水星の魔女』はそれぞれ分割の4クール作品と2クール作品だが、今期の1クール目だけでも単体評価できる締め括り方だった。さらにこれは自分の主観大いに込みだが、奇しくもどの作品も主人公とその親の関係が劇中で重要な役割を果たしていた。

 折角なのでここに各作品の振り返りと雑感を書き留めておこうと思う。

 

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『ぼっち・ざ・ろっく!』

 まんがタイムきららMAXで連載されている4コマ漫画のアニメ化。

 ロックバンドに憧れギターを手にするも、コミュ障かつ自意識過剰という気質により高校まで「ぼっち」だった後藤ひとり。しかし偶然の出会いから下北沢の女子高校生バンドグループ「結束バンド」に加わることに……。

 

 3作の中でも最も好きになったのは本作。

 シンプルな描線のキャラを賑やかに動かす手描き作画から画風の七変化・実写・クレイアニメ・CGまで次々と繰り出してみせる映像演出の手数、音楽アニメ作品として最新鋭のライブシーン描写。その二つの強みを繋げているのが誰であろう主人公の「ぼっち」こと後藤ひとりだ。

 ひとりの暴走気味な自意識による妄想や奇行が作中世界の見え方にまで干渉して数々の奔放な映像表現が生まれ、一方で彼女が孤独な練習の末に「ギターヒーロー」と呼ばれるほどに卓越した演奏技術を身につけたという設定が、本来女子高生バンドとしては現実感のないはずの劇中楽曲やライブのハイレベルさにぎりぎりの説得力を与えている。ひとりの両極端なキャラクター性がそのまま作品の魅力の核になっているのだ。

 

 そして彼女を囲むメインキャラ達は「結束バンド」のメンバーである喜多郁代・伊地知虹夏・山田リョウ。さらに彼女達が本拠地とするライブハウスの店員や他バンドの人物等の人間関係を中心として物語は進んでいく。

 ひとりの家族(父・母・妹・犬)の出番はメインキャラほどではなく、さらに父親の後藤直樹はアニメの劇中では名前が呼称されず常に目元が隠され描かれないほど影が薄い。しかしこの父親こそが、後藤ひとりという主人公の形成に欠かせない存在だった。

 

 第1話で小学生のひとりはテレビの中で賞賛を浴びるロックバンドに触発され、かつてバンドをしていた父からギターを借り、そのまま何年も練習に励んでいくことになる。ギターヒーローとしてのひとりの出発点からして父なくしては生まれていなかった。

 そして第5話や第8話での本格的なライブシーンではひとりが父のギターを駆り演奏の盛り上がり所を担って活躍する。しかし第12話(最終話)の文化祭ライブでは、そのギターが長年の使用の末ついにパーツが壊れて弦が外れ、演奏に支障を来たす事態になってしまう。窮地に陥るひとりだが、それを乗り越えたのもボトルネック奏法で強引に弾きこなすという、やはり父のギターで培ってきたスキルによるものだった。

 ライブ後にギターを壊してしまったことをひとりは父に謝罪するが、彼は笑ってとりなし、むしろ彼女自身のギターを購入することを提案する。ひとりがギターヒーローの演奏動画配信をしているアカウントに父がこっそり広告収入設定をしておいたことにより、ギターを買うのには十分な収益が貯まっていた。父はひとりがギターの練習をがんばり上達していく様子が見れたことの喜びを語り、ひとりは感謝する。

 この場面は殊更に感動的には演出されておらず穏やかに映されている。直後にはひとりの虚言癖も見られていたというオチがついて締め括られる。他でも、ひとりのバンド活動を応援したりライブを観覧したりといった場面では父の様子はコメディタッチで描かれている。しかしその感動や涙は紛れもなく本物のはずだ。

 それは単なる子煩悩というだけではなく、深刻なレベルで社会不適合な性質を抱えていた娘が自分の可能性を見出しそれを確かなものにしていっていることに感激していた……とも捉えられるだろう。

 

 当初は家の押し入れの中で父からお下がりギターでソロ演奏をするのみ……という、父をふくめた家族(家)の中に籠っていたひとりは、最終話のラストで新たな自分専用のギターを背負って「行ってきます」と朝からバイトに出かける。さりげなく確実な彼女の親離れ・家からの巣立ちがここに描かれているのだ*2

 作品本編はあくまで結束バンドの4人をメインとして描かれているからこそ、その底流にあった父娘の物語がじんわりと沁み出してくる、良い締め括りだった*3

 

 

BLEACH 千年血戦篇』

 言わずと知れた00年代少年ジャンプの大ヒット作、その最終章を満を持してアニメ化。

 突如ソウルソサエティがユーハバッハ率いる滅却師達に襲撃を受ける。傷跡深い護廷十三隊や現世の面々は来たる本格的な戦いにそれぞれ備え、一護もまた力をつけるため霊王宮に向かった先で、彼は改めて自らのルーツを知ることになる……。

 

 白黒のコントラストやハッタリの効いた画面構成等、漫画媒体の特性を殊更に強みとしている『BLEACH』を色がつき動き回るアニメ作品にするにはどうすれば良いか。2004年〜2012年の最初のアニメ版を経て、その命題に今度こそスタッフが真正面から向き合い、少なくともこの1クール目でにおいてそれは成功していると言っても良いのではないか。

 その要因としては、旧アニメ版よりさらにキャラデザを原作のものに近づけた一方で、原作の数ある強烈なキメ絵をそのまま無理矢理にアニメにしようとはしていないというハンドリングがまず大きいだろう。

 例えば、第6話での山本元柳斎の卍解お披露目の場面。原作で鮮烈な見開きページになっていたのはその意外な刀身が現れるシーンだったが、新アニメ版ではその直前の轟々と燃え盛る炎がぱっと消え去り異様な静寂が訪れる瞬間にこそインパクトがもたらされるよう演出されている。その後も卍解で大気が乾燥していく様を画面の明度・露出を調整して伝えてみせたり、死者を復活させる能力の悍ましさを無機質なCGと音響で表現したりと、動画・音声を備えたアニメならではの作り込みに全力投球している*4

 さらに、BLEACHのビジュアルの代名詞と言えば死神達の衣装をはじめ作中の「黒」をベタ塗りで絶妙なシルエットとして表現していることだが、今回はむしろその黒に赤や青の光源に沿った色調の薄いライティングを入れている。それにより暗い場面でもキャラクターに立体感や映像としてのリッチさがもたらされ、新アニメ版独自の魅力になっている。

 その色彩設計の狙いが極まっていたのがやはり最終話だった。

 

 1クール目最終話となる第13話「The Blade Is Me」では、父と母の出会いと自らの出生の秘密を知った一護が決意を新たにするシーンから始まる。霊王宮の鍛冶場に連れて行かれた彼は、自分の斬魄刀を打ち直す際に更なる真実に直面することになる。それまで斬魄刀の化身として一護の中にあったはずの「斬月のオッサン」は、実は滅却師の力の根源……つまりユーハバッハと同じ存在だったのだ。

 そのことが開示された場面では、一護の精神世界で「斬月」が佇む背景の空はマゼンタ(赤寄りのピンク)に染まっている。この色は、この1クール目OPで印象的に使われている色だ。OPでは空とそこから降る雨がマゼンタカラーになっている。「雨」は一護が幼少期に母親を喪った時の記憶と強く結びついており、彼にとって悲しみや絶望の象徴だ。また同時にタイトルバックで現れる「千年"血"戦篇」というサブタイも相まって、それが戦禍で流される血のようにもイメージされるようになっている。そして劇中で旧アニメ版映像を流用した過去の場面がフラッシュバックされる際も、現在時間との差別化も兼ねて画面全体がマゼンタにフィルタリングされている。

 つまり本作においてマゼンタとは「雨」「血」「過去」であり、その色を「斬月」が背負って現れるということは、斬月が一護にとって宿敵のユーハバッハと同じだというこれ以上ない悲しみを引き起こすものであり・どうして向き合わなければならない過去の象徴になったという重層的な意味合いが色一つで表現されているのだ。

 

 斬月は一護が死神として覚醒してしまえば自分が敵対せざるを得ないことから一護の力を抑え込んでいたことを明かし、また一方で彼の成長に心動かされ続けていたことも吐露する。そして彼は一護のために自分が消え去るという選択を取る。この庇護と献身の精神は親から子へのそれと言って差し支えないだろう。

 斬月が中年男性の見た目をしており、もう一つの側面である虚も一護と同じ姿をしていることから、彼(ら)を親とするなら自然と「父親」として捉えられるかもしれない。だが滅却師の力も虚の力も母の真咲由来のものであることやその力が一護を戦いや悲しみから遠ざけ守ろうとした行動からすると、むしろ「母親」のような母性的存在だったとは言えないだろうか。

 斬月が遺した滅却師の青い霊圧が彩る世界で旧アニメ版からの一護のテーマソング「Number  one」が流れる中、一護は斬月に理解と感謝の言葉を述べ、暗闇を迷いなく進み出口に手を伸ばす。これも母体の中からの生まれ直しのようなイメージを喚起するものだ。

 そして場面は現実の鍛冶場へと戻り、一護が二刀になった真の斬月を引き抜いた瞬間、力の余波で鍛冶場の「水」が蒸発する*5。新たな斬月から放たれる霊圧の色は、滅却師の青と虚の赤が混ざって一護の髪色と同じオレンジへと変じる。さらにその輝きが水滴のようになって立ち昇っていく様は降雨の逆再生のように見える。一護がその力を完全に自分のものとし、幼少期から悲しみのメタファーである「雨」も克服したことがアニメならではの「色」と「動き」で見事に表現されている。

 

 原作ではここからいよいよ死神達と滅却師の最終決戦が始まるのだが、肝心の一護の活躍が最後まで煮え切られないものになったり、場面の間延び・省略が極端になったりと、当時は一読者として長期連載の畳み方の難しさを感じずにはいられなかった。

 しかしこの1クール目の出来栄えを見れば、アニメスタッフ陣が今こそ『BLEACH』を最良の形に仕上げてくれるのではないかと希望を持っている。

 

 

機動戦士ガンダム 水星の魔女』

 宇宙フロントに浮かぶモビルスーツ産業の人材育成機関「アスティカシア高等専門学園」に水星からの編入生スレッタ・マーキュリーがやってくる。スレッタは産業大手ベネリットグループ総裁の娘ミオリネ・レンブランを「花嫁」として、幼い頃から一心同体ガンダムエアリアル」で学園内のMS同士の「決闘」に挑んでいく……。

 

 『ぼっち・ざ・ろっく!』と『BLEACH千年血戦篇』がいずれも主人公と親(にあたる存在)の前向きな関係を描き出したのに対して、現時点ではそれをよりネガティヴかつ強固なものとして映しているのが『水星の魔女』だ。

 主人公であるスレッタは母のプロスペラと仲睦まじい関係にあるが、プロスペラが過去に直面した迫害・虐殺への復讐として娘を利用しているのではという疑惑が示唆されている。スレッタ自身も母への信頼が盲目的で危うさが垣間見える。そしてスレッタの花嫁となるミオリネの父デリングこそかつてプロスペラ達への攻撃を指示した張本人であり、ミオリネは父に反発して学園から脱して地球に行くことを目指している。

 スレッタが学園内の決闘で相手取るMS産業の御曹司達も、強権的な父の言いなりになることに鬱屈を抱えていたり(グエル)・親もいない使い捨ての人材として孤独感に苛まれていたり(エラン)・孤児だった自分を拾ってくれた義父に表面だけ従っていたり(シャディク)と、やはりそれぞれ親と良好とは言い難い関係にあったり関係そのものがあらかじめ喪われていたりしている。

 メインキャラの少年少女に皆親との複雑な関係を背負わせたフォーマットにより、ひるがえって彼らがあくまで「子ども」であることが強調され、決闘を軸としたぶつかり合いの中で彼らが親とどう向き合いその支配から脱していけるのか……というテーマが自然と立ち上がってくる。

 また、メイン2人のスレッタとミオリネという女性キャラ同士が、当初は形だけの「花婿・花嫁という関係だったところから数々の衝突や助け合いを経て真のパートナーとなっていく様子が丹念に描かれていった。

 

 そうした諸々の描写がひとまずの締め括りを迎えるであろうと思われていた1クール目最終話の第12話「逃げ出すよりも進むことを」だったが。

 終わってみれば、各々の親子関係を見つめ直しつつも同時に決定的な破局を迎えたりあるいは不穏の種を温存することになったり、何よりスレッタとミオリネに決定的な断絶が起こったりと、クライマックスというよりはカタストロフと形容すべき結末になった。

 

 地球寮の面々が出向いた先のベネリットグループの施設がシャディクの手引きでテロリストに襲撃される。

 その場に居合わせていたグエルは、混乱のどさくさの中MSで出撃した果てに父ヴィムが乗っていたMSを仕留めてしまう。一瞬の再会でグエルを案じていたことをヴィムが漏らすも、既に致命傷を受けていた彼はMSの爆発に消えていく。

 スレッタはミオリネと分断され、彼女を探す途中でテロリスト達に殺されそうになるが、プロスペラの介入で救われる。学園内の決闘ではない生死のかかった状況にスレッタは怯えるが、プロスペラから改めて「逃げたら一つ、進めば二つ」の信条を説かれ、ミオリネ達を救うために戦いに身を投じることを決める。状況だけ記せば主人公らしくヒロイックなものに見えるが、その会話の様子は母が幼い子どもを優しい言葉で言い包めるような白々しく不気味なものとして演出されている*6

 ミオリネは突如の攻撃からデリングに庇われ、その所為で重傷を負った彼に動揺しながら親愛の情をのぞかせる。そして突入してきた襲撃者がデリングの命を狙ってくると、今度はとっさに自分が盾になろうとする。グエルやスレッタに比べればミオリネと父の場面はまだ健全な和解のように映る。しかしこれによりミオリネが「デリングの子ども」としての在り方を強めてしまったことが直後のシーンに影響してくる。

 

 テロリストがミオリネごとデリングを殺害しようとしたところへエアリエルに搭乗したスレッタが現れ、「やめなさい!」とエアリアルの手で一瞬で叩き潰してしまう。そしてスレッタは自分の行いに動揺した様子も見せずミオリネの元に降り立ち、彼女へと笑顔で血に塗れた手を差し伸べる。

 スレッタはプロスペラの教えの通り「進めば二つ」を選び、その結果殺人を犯しても何の呵責や後悔もしていないように振る舞う。ミオリネはデリングがプロローグで「自ら奪った命の尊さとその罪を背負わなければいけない」と宣ったことに準じるように、スレッタが平然としていることに衝撃と恐怖を覚え「人殺し」と拒絶の言葉を発してしまう*7

 つまりここではスレッタとミオリネは個人同士というより「プロスペラの子ども」と「デリングの子ども」として彼らの対立を代理するようなかたちで対峙しているのだ。第11話ではミオリネがスレッタの胸元に顔を埋めたまま言葉を交わすることで「互いの顔を見ないで」「互いの思いを確かめ合う」構図だったが、第12話のこの場面では「互いの顔を正面から見つめ合って」「互いの思考が理解できない」に逆転している。

 スレッタの真正面からの笑顔のカットから切り返して恐怖に凍りつくミオリネが映される。彼女の体はフレームの外を向いているが、顔は正面(つまりスレッタの方)へ向けられ、カメラがゆっくりとそこへズームしていく。あたかもミオリネにとってスレッタの異様な精神性が逃げ場なく迫ってくるかのような撮り方だ。

 視聴者にとしても、心中が読めなくなったスレッタよりは一般的な感情を訴えるミオリネの方に感情移入して、改めてこのスレッタという主人公は何者なのかと戦慄とともに否応なく彼女を注視することになるだろう。

 

 この1クール目の終わり方、特にスレッタとミオリネの顛末について、「二人が限りなく近づいたからこそその根源的な断絶が可視化された」ととるか「それまでの信頼や共感の積み重ねがちゃぶ台返しされた」ととるかは視聴者によって意見が分かれるところだろう。実際、このラストに持っていくために第12話の展開が露骨に図式的なきらいは確かにある。だが自分は、いくつもの要素や関係性を徹底的に重ね合わせ反転させたこの構成美にこそ感銘を覚えた。

 ここからスレッタとミオリネそして彼女達含めて何組もの親子がいかにして関係を結び直し物語の終わりへ辿り着くのか、その道のりは途方もなく遠く険しいように思うが、続く2クール目を信じて待ちたい。

 

   ***

 

おわりに

 

 ……といった感じで、各作品を「主人公」「親子」の観点から語ってみた。

 やはりどの作品も「いかに主人公をこの作品・物語の中心人物として際立たせるか」というチャレンジが印象的だし、それを成功させるためには親(保護者)の存在とその関わり方が重要になるんだなあと強く感じた次第。父が主人公をさりげなく新たな日常に送り出した『ぼっち・ざ・ろっく!』、主人公が親的存在に別れを告げて新生した『BLEACH千年血戦篇』、親子関係が今はただ混迷の中にある『機動戦士ガンダム水星の魔女』。

 もちろん親キャラをあくまでサブ止まりにしたりその姿を全く描かずに成り立っている作品も数多ある。ただ、やはり親との関係描写(支配・超克)を経て主人公のビルドゥングスロマンを達成するというのは古典として残っているくらい強い方式の一つなんだと思う。特に未成年をメインキャラとする作品においては*8

 

 『ぼっち・ざ・ろっく!』はアニメ作品としては一旦完結したが、これだけ人気となれば2期もいずれ作られるだろう。原作のその後では、さらに作中時間が進んで結束バンドの面々が本格的にバンドで身を立てるためのフェス応募やレーベル所属、進学等を描いていくことになる。そうした自立に向けた物語が進むほどに、発端となる後藤ひとりと父の関係が重要性を帯びていくだろう。『BLEACH』も今後は改めて敵としての「父」「祖」のユーハバッハを倒す戦いに踏み込んでいく。『水星の魔女』はスレッタとミオリネそれぞれの親との決着、そして父を手にかけるという物語を「終えてしまった」グエルの存在が劇中でどうなるのかが気になるところ。

 それぞれの物語がまた区切りを迎えた際には、この記事の続きを書く時もあるかもしれない。

 

 

*1:配信作品ではネトフリでの『ジョジョの奇妙な冒険』第6部最終クールもあった

*2:また、本作はひとりの父以外にも虹夏の姉でありライブハウスの店長である星歌や新宿のバンドベーシスト廣井など、他の大人達もひとりを見守り背中を押してくれる。大人達はだいたい皆情けなかったり社会的に真っ当でなかったりするが基本的に未成年の味方であるというのが『ぼざろ』の特長だ。

*3:ちなみにアニメで少し語られ、単行本最新5巻で番外編として収録されたエピソードでは、星歌が母親を亡くした虹夏の親代わりとなって彼女のためにライブハウスを立ち上げたことが明かされている。陰ながら保護者に音楽に関わる後押しを受けていたという点ではひとりと虹夏は相似形であり、だからこそ虹夏が早いうちからひとりのギターヒーローという正体を見抜き自分の夢を明かすに至ったのかもしれない。

*4:他にも、第10話で卯ノ花烈が剣八との死闘の果てに卍解するシーン。ここでもその絵面だけをキメとするのではなく、原作では黒塗りの小さな1コマだけだった卯ノ花の「卍解」と唱える瞬間、その声音の恐ろしさにこそ重きを置くように声優の迫真の発声と真っ黒な画面の合わせ技にしていた。

*5:本作は旧アニメ版からのレギュラーキャスト陣の堂に入った好演が懐かしくも嬉しい中、今回から新登場した二枚屋王悦を演じる上田耀司が負けず劣らず素晴らしい。最初の能天気な振る舞いから一転して、一護に真実を告げて最後に彼を肯定するまで、優れた劇伴のようにその場のテンションを盛り立てる役目をこれ以上なく果たしてくれていた。

*6:ここでオープニング主題歌「祝福」のピアノアレンジが流れているのだが、「祝福」の歌詞がストレートに明るいものなだけに、それをコーティングされているものは何なのか……という裏読みに繋げられるようになっている。

*7:ミオリネのスレッタへの態度の変化も前話から急すぎるようにもとれるが、彼女がスレッタと離れ離れになってからずっと非常時の中にありほぼ恐慌状態だったこと、テロリストでさえも彼女ごと殺すことに躊躇いを見せていたこと等で、この拒絶に至る導線は確かに敷かれているのだ。

*8:つい最近も長年の試行錯誤の果てに父と息子の対話で以て完結を迎えたシリーズがあったが、あれは自分としては……まあいいや