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『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』感想覚書:血と煙草と目玉

 

はじめに

 

2022年末の自分「いやー『THE FIRST SLUM DUNK』すごかったな……。まさか宮城リョータに原作読者も知らない過去が生えてきてここまで心狂わされるとはね」

2024年の自分「お前来年も東映アニメ作品で同じようなことになるぞ」

「え!? 何の作品の誰で!?」

ゲゲゲの鬼太郎』の目玉おやじ

目玉おやじ?????

 

 ***

 

 2023年秋から公開された劇場アニメ作品『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』、通称「ゲ謎」。

 原作者水木しげる生誕100周年記念作品であり、『ゲゲゲの鬼太郎』TVアニメシリーズ第6期の前日譚となっている。

 そこで描かれるのは、鬼太郎の父・目玉おやじの過去。昭和31年(1956年)*1、彼がまだ目玉だけではない人間の姿だった頃に血液銀行の社員「水木」青年とともに関わった、山奥の哭倉村で起きた連続怪死事件。

 目玉おやじの知られざる過去と人間「水木」とのバディものという予想外のコンセプトと事件を通じて昭和日本の暗部を抉り出すテーマ性がバッチリはまり、2023年4月末時点で27億円超という予想以上のヒットを打ち出した。公開当初からSNSやPixivで連日連夜作品の幻覚ファンアートが流れてきていた。

 

 かくいう自分も本作に大いに魅せられ、久しぶりに鬼太郎熱・妖怪熱が再燃した日々を送っている。

 アマゾンプライムビデオでの見放題配信も始まった今、改めてこの作品を重要な構成要素である「血」「煙草」「目玉」の三つの観点からレビューしていこうと思う。

 また、呼称の混乱を防ぐために文章中では過去の目玉おやじのことは作中でも呼ばれている「ゲゲ郞」、血液銀行社員の水木のことはそのまま「水木」、原作者はフルネームで「水木しげる」で表すことにする。

 

 

1.「血」の章

 ゲゲ郞や水木が血にまみれているティザー映像や作品内でも飛び交いまくる血飛沫等、本作はとにかく「血」のイメージが印象的だ。

 そして物語上のファクターとしても重要な役割を果たしている。

 

 水木が勤める「血液銀行」は、1960年代頃まで現実に存在した、輸血等に使われる血液を民間から買い取り医療機関に販売していた民間企業だ。その売り手の多くは血を売ってでもお金を必要とする困窮した人々だった。作中でも社屋の中(あるいは病院?)で採血を待って列を作る元気のない者達の姿がある。しかし彼らが報酬のために限度を超えた採血による貧血や提供した血液の品質低下等の問題も発生していた*2

 そして水木が会社の密命を受けて探していた、龍賀製薬が秘密裏に製造・販売し戦中戦後の政財界での地位を築いた幻の血液製剤「M」の正体は、龍賀一族の当主・龍賀時貞が率いる哭倉村が捕らえた幽霊族の血液を人間に投与し屍人化させた身体から精製したものだった*3

 東京の血液銀行も山奥の哭倉村も「弱者や少数者から血を吸い上げて利益を生む」構造で相似したものとして明確に描写されている。本作への評価で「地方の因習を批判的に描いている」というものがあるが、それは明らかに片手落ちだ。

 さらにそうした搾取構造は、かつて水木が徴兵時に体験した状況にも通じている。軍部の体面のために一兵卒達は無意味な特攻を強いられ、上官は保身によりその犠牲には加わらず戦後も私腹を肥やしていた。そのトラウマから企業社会で精力的に働いてきた水木だが、本作の事件に関わることにより都会にも地方にも蔓延る血を奪い奪われるシステムをまざまざと見せつけられることになる。それははからずも沙代が言った「東京もこの村も同じ」という科白がシンプルに表現している。

 

 「血」で表現されるテーマはこれだけではない。それは「血縁」や「家族」だ。

 龍賀一族は幽霊族から血液製剤を作る一方で、時貞が一族の女性と近親相姦して強い霊力を持った子孫を生み出すというしきたりを強いていた。女性達はいずれも戸籍上の夫との関係は冷たいもので*4、当代で時貞の「お気に入り」になっていた沙代は溜め込んだ鬱屈から幽霊族の怨念が形になった妖怪「狂骨」に取り憑かれ惨劇を起こすに至ってしまう。さらに村長の長田夫婦の息子である時弥は時貞によって体を乗っ取られるために産まされた存在だったことが明らかにされる。これは哭倉村・龍賀一族という特殊な舞台での歪んだ家族関係よるもののようでいて、時貞の所業は家父長制での家長のエゴを極限化した表現だとも言える。それは先に示した血液銀行血液製剤M・戦争の搾取構造とやはり類似したものだ。

 

 しかし本作での「血」はそうした陰惨なものだけではない。改めて、この作品で描かれているのは鬼太郎の誕生にまつわる物語だ・そこにあるのは紛れもなく目玉おやじとその妻から子への、さらに数多の祖先達からの「血のつながり」なのだ。

 この世に残った最後の幽霊族としてゲゲ郎と妻は出会い、夫婦となる。妻が消息不明になる寸前に実はゲゲ郎の子=鬼太郎がその身に宿っていたが、彼女が囚われたのは幽霊族をMの材料として死体同然になるまで貪る哭倉村だった。彼女は子どもを魔の手から守るために妊娠を隠し出産もせずずっと身籠り続けていた。そしてそのことが時貞にバレてしまいいよいよ子どもに危機が迫ると、亡骸になっていた幽霊族の同朋・祖先達が子どもの泣き声に応え、その髪の毛を狂骨と合わせて皆ご存じの「霊毛ちゃんちゃんこ」に変化させ、ゲゲ郎達の身を守らせる。そしてゲゲ郎は溢れる呪いを引き受け、妻と子どもを村の外へと逃がす。

 人間側の歪で自己中心的な血縁・家族関係とは対照的に、子どものために肉親や祖先が身を擲ってでも守り未来に繋げていこうとするという、あまりにも健全で理想的な「血のつながり」の在り様だ。

 そして、人間と幽霊族両方の「血」を目の当たりにした水木がゲゲ郎達からその子どもの鬼太郎を託され、「血のつながらない親」として彼を育てていくことになるという帰結。今の時代にも通じる新境地のようでいて、この部分は歴として元の『墓場鬼太郎』から存在しており、原点回帰的な結末でもある。

 

 また、水木と鬼太郎の関係はメタ的には勿論「水木しげる」という原作者と『ゲゲゲの鬼太郎』という作品のそれに重ねられている。

 ここで重要なのは『ゲゲゲの鬼太郎』の制作経緯だ。

 『ゲゲゲの鬼太郎』が貸本漫画『墓場鬼太郎』が元になっていることはある程度鬼太郎に知見のある人には周知のことだ。では『墓場鬼太郎』のその始まりは?

 元々この国には『子育て幽霊』『飴買い幽霊』等の「幽霊や死者が赤ん坊を生み育てる」という物語類型がある。1930年代前半頃にそれをモチーフにした紙芝居作品『ハカバキタロー』が伊藤正美(原作)・辰巳恵洋(作画)によって制作された。その後同じく紙芝居作家として活動していた水木しげるが作者達の承諾を得た上で新たな紙芝居『墓場の鬼太郎』を描く。それが貸本版『墓場鬼太郎』→『鬼太郎夜話』→『ゲゲゲの鬼太郎』に繋がっていった。

 つまり『ゲゲゲの謎』で水木が鬼太郎の「育ての親」となったように、実際に水木しげるもまた『鬼太郎』の「産みの親」ではなく「育ての親」だったのだ。

 しかし『鬼太郎』を日本有数の作品・コンテンツへ導いたのは間違いなく水木しげるであり、彼が『鬼太郎』の「親」であることに異を唱える者はいないだろう。

 

 そして漫画からのメディアミックスにあたって水木しげるから『鬼太郎』を託された歴代のアニメスタッフ達もまた「鬼太郎の育ての親」だったとは言えないだろうか。

 『鬼太郎』は1968年に放映開始したTVアニメ第1期から始まり、およそ10年ごとに

TVアニメシリーズが新しく制作されてきた。それは第2期以外は前作からの続編ではなく毎度キャラクターや設定が一部仕切り直されたためにそれぞれ微妙に異なった作風を持つことになり*5、主人公の鬼太郎像も水木しげる由来の「飄々としつつ不気味な存在」と大人気エンタメコンテンツの主役としての「心優しい人間の味方」の間を絶えず揺れ動いてきた。

 それはさながら鬼太郎の育ての親となった水木が『墓場鬼太郎』で鬼太郎に恐れと親愛を抱え戸惑いながら接していたように、シリーズごとのアニメスタッフ達もまた毎度『鬼太郎』という変幻自在の原作をどう扱うか試行錯誤を続けてきたのではないか。だからこそその描写に多様な振り幅が生まれ、アニメシリーズが何十年も再誕を繰り返すことができたのではないだろうか。

 その最新形として2018年からのTVアニメ第6期とその前日譚・劇場作品である本作が今ここにあるのだ。

 

 

2.「煙草」の章

 作中の年代設定は昭和31年(1956年)。日本の成人男性の喫煙率が7割以上、男女を平均しても4割以上だった時代だ(ちなみに2022年時点の国民生活基礎調査では男性25.4%、女性7.7%)。

 それを反映してか、本作の登場人物(特に男性)には多くの喫煙描写がみられる。

 冒頭の血液銀行社屋や夜汽車の中でも当たり前のように人々が煙草を吸い煙が室内に立ち込めている。

 

 水木もまた愛煙家として描かれ、作品中盤まではほとんどの場面で煙草を手にしている。少女が咳き込む汽車内でも煙草に火を点けようとし、哭倉村に着いてからも平然と吸殻をポイ捨てしている*6

 これは時代のリアリティにしたがった描写であると同時に、彼の内面の表れになっていたように思う。そもそも血液銀行に勤め伝説の滋養強壮剤を追い求める=健康・長寿に関わる職務についている水木が健康に有害で寿命を縮める煙草を愛用しているという矛盾がある。それは戦争で心身に重篤な傷を負い今も自分が死んでいる悪夢に苛まれる彼が無意識的に自分の生命を大事にできずにいること、他人への配慮も欠落してしまっていることを描いているのではないだろうか。

 そんな水木はゲゲ郞と出会った時も彼に心を許さず「(煙草を)一本くれんか」と請われても「やだね」と意地悪く拒絶する。しかしゲゲ郞と行動をともにするうちに自分の苦悩や孤独を内省していき相手への感情移入も深まってくると、墓場での酒宴の中で初めて彼に煙草を分け与える。

 水木が時代に呑まれ自傷的になっていることを示すアイテムだった煙草が、彼のポジティヴな変化を表現するものに置き換わった瞬間だ。ちなみにここを最後に、水木が喫煙する場面は出てこなくなる。彼の変化とともに煙草の前者の役割も終わったということだろう。本作での物語の後、赤子の鬼太郎を育てることになった水木は時代に反してでも禁煙したりしたのだろうか……果たして。

 

 そして水木以外の登場人物の喫煙描写も見るべきところは多い。

 例えば龍賀一族に婿入りし製薬事業を発展させた龍賀克典。彼は富裕層らしく紙巻煙草ではなく葉巻を愛用している。葉巻を片手にしながら水木と沙代の仲をからかったり彼女を水木に「くれてやる」と嘯いたり、水木に出世を報酬としてMの在処を探らせる交渉をする際に葉巻を受け取ることをYESとするように見立てる。そして葉巻を吸い慣れておらずむせる水木を嘲笑し、水木は屈辱を感じるものの葉巻を捨てられない。このように、克典の煙草に関わる描写は表向きの龍賀製薬のトップである彼が水木にとっての上位者であることを端的に示す。被搾取の側から抜け出そうとあがく水木が未だその仕組みに囚われていることを否応なく突き付けてくるのだ。

 龍賀時貞の長女であり克典の妻である乙米。彼女は公の場では喫煙の様子は無いが、一族内で剣呑な話題に及ぶ時や捕らえたゲゲ郞に残酷な裁定を下す時等、その高圧的で非情な気性を露にする場面では煙草を高飛車な感じで携えており、彼女の悪辣さを際立たせる小道具として機能している。

 こうしてみると、本作での「煙草」とは水木が自身の内面と向き合うと同時に決別するものであり、彼に支配・屈服を迫ってくる者とともにあるガジェットだ。とすれば最終的な倒すべき敵として現れる龍賀時貞こそが偉そうに煙草をふかしているべきだったのでは……と思うところはある*7

 

 また、本作で登場する「煙」は煙草のものだけではない。

 ファーストカットで山中に立ち込める霞と雨煙、東京に場面が変わった時に風景の奥に映る工場の排気ガス、哭倉村へ向かう汽車から吐き出される排煙、水木が思い出す戦場での硝煙、ゲゲ郞が入る温泉の湯煙、禁域の島に漂う毒々しい妖気。そして煙の元となる「火」として、狂骨が人を襲う際の青白い炎も印象的だった。

 本作には煙草を筆頭に多種多様な煙が立ち込めている。その煙の向こうに存在するものを見通せるかどうか、これについて次の章で。

 

 

3.「目玉」の章

「儂には見えるのじゃ。見えないものが見えるのじゃ」

 

 本作でフィーチャーされているゲゲ郞こと「目玉」おやじが何度も言葉にしているようにこの物語では終始「見えているもの・見えないもの」が取り沙汰され、そしてその機能を持つ「目」そのものも重要なファクターになっている。

 

 主人公の水木は南方の戦場や帰還した内地で弱者が強い者・狡い者に支配される有り様を「見た」ことから自分の利益や出世に躍起になり他者を信じられないようになってしまった。

 それ故に序盤の水木は「大事なものが見えない」人物として描写される。

 哭倉村に足を踏み入れた際には、村内からの視線や突然現れる長田に気づけない。代わりに、龍賀一族の者として恩を売ることになる沙代の鼻緒が切れて困っている様子には遠目からでも気づいたり龍賀の屋敷内で一族の主要人物を瞬時に把握したりと、自分の得になる事物については目敏い。

 

「妖怪はどこにでもおるぞ。お主が生まれた時からお主の周りにも無数におった。ただお主が見ようとせんかっただけじゃ」

 

 そんな彼はゲゲ郞に会い関わるうちに、妖怪の姿が見えるようになる。それは単に彼が霊視能力を手に入れたという表面的事実だけではなく、それまで目を逸らしていたモノ・コトに向き合うようになったということだ。その比喩としての「妖怪」。それは自分の傷ついた内面であったり、自分のために無下にしてきた・しようとしていた他者の存在でもある。

 

「あなたならって信じてたのに。私のことを見てくれるって……」

 

 水木はゲゲ郞とともに哭倉村の秘密に迫っていき、その果てに沙代が龍賀一族のおぞましいしきたりの犠牲者だったこと・一方で彼女が狂骨を使役して三度の殺人を犯していた真犯人だったことの両方を直視することになる。だからこそ、沙代の縋る目線に応えられず彼は目を逸らしてしまう。そしてそれが沙代の精神にとどめを与え、さらなる大量殺戮の引き金となってしまう。

 水木と沙代の「見えないものが見えるようになったからこそ見ていられなくなる」ドラマの決着として、惨憺たるものだが圧巻の迫力だった*8

 

 水木に「見えないもの」のテーマを説いたゲゲ郞だが、彼がそれを完璧に体現したキャラクターかというと少し違う。

 確かに彼は幽霊族として妖怪が見えていて人間(水木)の内面を見透かすことできる。しかし過去回想においてゲゲ郞と妻の前で子どもが転んだ時、妻はすぐに子どもに寄り添って労るが彼はそれを見ているだけだった。終盤の地下工場で死人達が暴走して村人達を襲い出す場面でも、起きる事態を悟るものの(拘束されているとはいえ)それを止めようとはしなかった。もちろん時弥に優しく接したり沙代の気持ちを慮る等のシーンもあるが、それ以上に彼らへ積極的に働きかけることはない。つまり彼は「見ているだけ」の在り方だったと言える。それが最終盤になって、「我が子と友の生きる未来を見てみたい」との理由で荒れ狂う無数の狂骨を引き受けて被害が村の外まで及ぶのを防いでみせた。

 水木だけでなくゲゲ郞もまた本編の中で見る世界を大きく広げたのだ。

 

 そして彼らの宿敵となる龍賀時貞の「目」も印象的だ。

 冒頭の老いた彼が亡くなるシーンでは白目を剥いており、その後の遺影では目の部分は黒い影で描かれている。

 終盤で時弥の体を乗っ取った時貞が現れた場面で初めて彼の目がはっきり表されるのだが、その両目は爛々として狂気じみたものになっている。彼は自らの資質と権威を誇り、今の時代の人々の頼りなさを批判し自分による教導の必要性を語る。しかしその実態は弱者・少数者から搾取し放蕩の限りを尽くし子孫という未来も自分のものとして食い潰そうとする俗物でしかない。水木が当初のまま突き進んだ場合の成れの果てとも言える。時貞は国の未来を見据えた言葉と裏腹に何も見えなくなっていたということだろう。

 最期、彼は暴走した狂骨に呑み込まれ、目どころか口耳鼻や四肢もない球体となって永遠に苦しむことになる。

 

「目で見るものだけ見ようとするから見えんのじゃ。片方隠すくらいでちょうどいい」


 その科白の通り、本作では「片目」も何度も反復される要素だ。

 水木からして戦場で左目を負傷してその傷痕が残っており、沙代の殺人の犠牲者はいずれも刺し貫かれたり鳥に啄まれたりして左目を失っている。

 ゲゲ郞の側も、彼の妻は長い間哭倉村に囚われて血を抜かれ続けた中で右目が潰れてしまっており、後に出産される鬼太郎は生まれつき左目を失っている。そしてゲゲ郞は無数の狂骨の呪いを背負った負荷により村から出た後で身体は限界を迎えてしまうが、左目だけに命を残して皆がよく知る「目玉おやじ」の姿になる。

 片目の喪失、あるいは片目だけの存在になること。水木や龍賀の者はそれまで目を逸らしていたことへの因果応報のようであり、鬼太郎一家の方は人間達の残酷さ・愚かさに巻き込まれた呪いの印のようでもある。

 しかし、鬼太郎の左目が無いことが元の『墓場鬼太郎』では水木が鬼太郎を恐れて振り払った拍子にその目を潰してしまったという経緯から、本作では元々左目が失われており水木は幽かな記憶から鬼太郎を抱き締めて劇終する展開に変わっている。それは「片目」にまつわるネガティヴな符号が陽的なものに変じたように自分には感じられた。

 

 鬼太郎は残った右目で、目玉おやじは自身の左目そのものとして人間と妖怪二つの世界を見据え続け、昭和31年後から70年後の現代で、その無念から最後の狂骨となっていた時弥に「忘れない。君の想いは僕が受け継いでいくよ」と言葉をかける。

 妖怪をふくめた「見えないもの」に目を向け、時に戦い時に助け、それらを忘れないでいること。

 目が特徴的なキャラデザインの鬼太郎と目玉おやじへの今になっての意味付け・再定義としてこれ以上のものはないだろう。

 

 そして、「見ること」「見えるもの」のテーマは観客/視聴者である自分達も決して無関係ではない。

 本作はTVアニメ第6期から続く新作でありながら、はっきり描かれる血飛沫や人体損壊等、TV本編よりもグロテスクな描写が増えている。それが可能になっているのは本作が「PG12指定」作品だからだ。「12歳未満の鑑賞には成人保護者の助言や指導が適当とされる」と定義されている。つまり、12歳未満であっても保護者同伴であれば本作を鑑賞できるのだ。

 本来子ども向け作品である鬼太郎シリーズでそれをやることの批判もあるだろうが、さらに重要なのはグロ描写等の「見えるもの」より近親相姦や少数者差別・搾取等の直接は「見えないもの」の表現だ。近親相姦はあくまで言葉で仄めかされるのみで映像にはなっていないし、幽霊族の血を投与された死人達の姿や本当に幽霊のような見た目になってしまったゲゲ郞の妻の姿もある程度漫画的なデフォルメが効いたビジュアルになっている。しかしそれでも設定のおぞましさを鑑賞者はイメージできるだろうし、元の人間から決定的に姿形が変わってしまうショックは描き方にブレーキがあっても減じない。

 そうした暗部がこの作品の中だけでなく現実の人間社会にも昔から今まで歴然と存在していること、自分にもいつ牙を剥いてくるか分からないということ。それを子どもの鑑賞者にこそしっかり伝えたいし保護者ぐるみで話題にしてほしい、そうした意義によるPG12指定だったと自分は思っている。

 

 最後に、水木やゲゲ郞、鬼太郎でさえも「見えなかった」ものについて。

 作品序盤の紫煙立ち込める汽車内では日本人形を持った少女が辛そうに咳をしており、母親と思われる女性が心配げに肩を抱いている。時代背景からして大気汚染による喘息症状等だったのかもしれない。

 しかし周りの乗客のほとんどは彼女を気にせず煙草を吸い続けており、通路を挟んで隣の席にいる乗客のみが目を向けているが、それは後に哭倉村で登場する長田の部下=裏鬼道の中の二人と同じ顔だ。そして場面を大きく飛ばして村の地下にある血液製剤Mの精製工場ではゴミ捨て場に日本人形が打ち捨てられており、処置室のベッドに並ぶ死人化した人間達の中に咳をする者とそれを見る者がいるカットがある。つまり汽車内にいた少女と母親が哭倉村の人間に捉えられ、M精製の犠牲者になっていたのだ。そして終盤で激昂した沙代によって死人達は全て怨霊と化し村人を襲い出す。その後、少女と母親はその怨みによって狂骨となっていたかもしれないが、現代の哭倉村では時弥が最後の狂骨として残っていたため、その場合もそれまでに鬼太郎が退治していただろう。

 咳をしていた少女は哭倉村による子どもの犠牲者という点では時弥と同じような立ち位置の人物と言えるが、水木は汽車で彼女の咳を耳にしていても振り向いてその姿をみとめることはなく、ゲゲ郞は親子と同じ処置室内に居合わせていたが他の死人達の中で彼女達を個人とは認識できなかった。鬼太郎も哭倉村で何十年もかけて狂骨を葬る中で狂骨と化した親子と相対していたかもしれないが、元がどんな人間だったかは知る由もなかっただろう。

 「見えないものを見る」ことを掲げる彼らにもどうしたって見えないものはあったのだ。

 ではあの少女と母親を「見えて」いて「忘れない」でいられるのは誰かといえば、それはこの作品を「見る側」である自分達に他ならない。だからこそ、鑑賞者にのみ汽車と処置室の連続性が分かる構成になっている。

 そこにあるはずのものを見えないものとしていないか、見たものを忘れないでいられるか。ゲゲ郎からの言葉は水木だけでなく自分達にも投げかけられているのだ。

 

 

おわりに

 「血」「煙草」「目玉」から本作を振り返って分かったのは、各要素は作品全体ではどれもショッキングで陰惨な展開と密接に絡んでいながら、最後には未来への希望につながるようなものへと反転しているということ。

 何故かと言えば、どれだけ暗い物語であってもあくまでも本作がタイトル通り「鬼太郎の誕生」を言祝ぐための作品だからだろう。

 作中の赤ん坊の「鬼太郎」へ、作品シリーズの『鬼太郎』へ、そして生誕100周年を迎えた水木しげるへ。人間か妖怪か、生者か死者かも関係なく。

 「彼」へ向けて、血塗られたオリジンの物語ながらも「生まれてきてくれてありがとう」「いつでもひどい時代だけれど、これからも一緒に生きていこう」というメッセージになっていた、そんな作品だったと思う。

 

 

奇しくも「昭和31年」創業の温泉宿にて、何かの気配を感じる……ような気がしながら

 

***

 

参考資料

日本赤十字社HP「血液事業の歴史」

JT全国喫煙率調査

 

*1:ちなみに2023年には水木しげるの門下と言える小説家・京極夏彦百鬼夜行シリーズ十数年ぶりの新作『鵼の碑』が刊行されており、その作品の時代は昭和29年(1954年)であり、ゲ謎とニアミスした時系列だ。さらに昭和29年といえば鬼太郎と同じく何度もリブートを繰り返して現代まで続くコンテンツとなった『ゴジラ』1作目が公開された年だ。そのゴジラも2023年に最新作『ゴジラ-1.0』が公開されており……この謎のグランドクロスは覚えておきたい。

*2:そのため個人が必要以上の血液提供に走らないように報酬ありの「売血」は禁止され、無報酬のボランティアから募る「献血」が基本とされるようになる

*3:Mのモデルになったのは現実でも各国の軍隊で兵士のための覚醒剤として使用された有機化合物「メタンフェタミン」だろう(英名の頭文字はM)。合成・結晶化に成功したのは日本の薬学者で、戦後は軍保有の在庫が市場に出回り「ヒロポン」の商品名で広く知られた。また個人的には、原料や違法・合法の差異は別としても、人間を無理に働かせるための強壮剤という点では現代のエナジードリンク類もMの遠い子孫なのではないかと思っている

*4:長女の乙米と村長であり裏鬼道の頭目である長田はおそらく男女の仲だったり、次男の孝三はゲゲ郎の妻を記憶が消された中でもスケッチを残す慕っていたりと、一族の中での形式上の婚姻関係の外では確かな情愛も存在していたような余白もある。当初監督が想定していた尺であればよりはっきりとした描写になっていただろうが、話があれ以上複雑化すると主題がブレてしまったいたかもしれない……

*5:アニメ評論家・藤津亮太氏は著作『アニメと戦争』で日本の戦争の語られ方は時代とともに「状況」→「体験」→「証言」→「記憶」のように移り変わっていくという成田龍一の説を取り上げ、アニメにおける戦争の扱いもそれに連動していると書いている。その具体例として『ゲゲゲの鬼太郎』歴代アニメでの「妖花」エピソードの変遷を挙げている。そうすると今回の『ゲゲゲの謎』は、水木しげるの経験・作家性の根幹に深く絡めた物語にすることで「状況」の背後にあり「記憶」の時代である今も尚続いている近代日本の「構造」を浮き彫りにし、否応なく遠ざかっていた戦争への距離感を今一度縮める役割を果たしたのではないだろうか。

*6:しかし汽車内では少女の咳を聞いた際に一瞬だけ煙草をふかそうとした手を止め、ポイ捨て時にはその足元をカメラに映さない等、過去の時代の常識観念を改変しないと同時に現代の鑑賞者に不快感を与える構図になるのをぎりぎりで避ける巧みな演出をしている。

*7:まあさすがにPG12指定といえど子どもの体で喫煙するシーンを出すわけにはいかなかったというところだろうか

*8:ちなみにゲ謎と同じくTVアニメシリーズの前日譚であり、戦場帰りの主人公が化け物を使役する敵と対峙し自分の目に見えているものが何かを問われる物語の『UN-GO episode:0 因果論』という作品があってえ……

2023年に読んだ漫画ベスト10

 またブログをほぼ1年放置してしまった……。

 取り急ぎ軽く何でも書こうということで、タイトル通り2023年に読んだ漫画の中でも特に印象に残ったり感銘を受けた作品ベスト10です。

 一応「2023年内に連載中・完結した作品」の条件で選出。別個で旧作の感想記事もいずれ書きたいところ。

 

 ではやっていきましょう。

 

 

10位 『コワい話は≠くだけで。』

原作・梨/漫画・影山五月

連載中、既刊2巻

 

 漫画家の主人公はホラー作品を描くことに。様々な怪談話を現地取材はせずにあくまで「聞くだけ」に留め、それらを漫画化していくが……。

 

 映像作品や小説でモキュメンタリー形式のホラーが隆盛して久しい中、漫画媒体では本作がかなりのストライクかも。

 最初はデフォルメの効いたエッセイ風の絵柄で主人公が取材するパートと怪談の内容をリアルな絵柄で描写するパートに分かれていたのが、だんだんその境界が崩れていくのが表現として見物。本作を掲載しているサイトの「更新未定」の告知でゾクッとさせたりと、ウェブ連載のフォーマットも存分に活かしている。

 これから絶対によからぬことが起きるだろうっていうかもう起きてるんだけど、超ビビりの自分にも読み進められる絶妙な「ピリ怖」感で心地良い。

 

 

9位 『令和のダラさん』

作・ともつか治臣

連載中、既刊3巻

 

 山里の社に封じられた恐ろしい半人半蛇の怪異「姦姦蛇螺」は令和の現在、陽気な姉弟にぐいぐい迫られていた……!

 

 コメディチックな異種交流譚をやりつつも並行して進む過去パートの陰惨ぶりはガチで、この先どうなるかの見えなさは油断ならない。それはそれとして新たな敵も容赦なくギャグ堕ちさせる。作者の手綱の妙に毎回唸る。

 

 

8位 『瀧夜叉姫 陰陽師絵草紙』 

原作・夢枕獏 漫画・伊藤勢

連載中、既刊5巻

 

 時は平安、安倍晴明源博雅に持ち込まれた怪現象調査。その行先にはあの大怨霊の影が……。

 

 耽美幽玄な魅力の原作を愛嬌たっぷりエネルギッシュに漫画化している、素晴らしいコミカライズ。

 聖人然としていた僧侶が魔人との死闘の中で「うおおおお俺はこのために研鑽を積んできたんじゃああああ!!」と獰猛に歓喜するシーンが胸を衝く。

 

 

7位 『違国日記』

作・ヤマシタトモコ

今年完結、全11巻

 

 両親を亡くした15歳の姪を引き取った作家。二人の共同生活はあっという間に3年目を迎え……。

 

 自分と他者との距離についての物語だったと思う。死んだ人間のことは生きている者からはもう分からないし、生きている同士ですら……。朝への親愛が高まった槙生がそれ故に彼女にとって一番の悪手をとってしまうのがまさに。それでも言葉を尽くす、そういう話。

 

 

6位 『生き残った6人によると』

作・山本和音

連載中、既刊5巻

 

 ゾンビパニックの中ショッピングモールに立て籠った男女6人。彼らはサバイバルしつつ恋愛に「感染」していく。

 

 ゾンビものというシチュエーションで繰り広げられるリアリティショー的な恋愛模様が魅力であり、そしてそれすらも舞台として「ショッピングモール」という空間を描くことが本当の目的なのでは?と思うほど、モールの風景が丹念に焼き付いていく。

 「6人」のメンバー構成が出たり入ったりして流動的なので、タイトル通り最終的に生き残る6人とは誰になるのか……?というスリルが常にある。

 

 

5位 『よふかしのうた』

作・コトヤマ

連載中、既刊18巻

 

 吸血鬼ナズナに出会い夜の世界に導かれた中学生コウ。多種多様な吸血鬼達、復讐にかられる探偵、同じく吸血鬼に恋した親友……。数多の出来事を経て、残るはナズナとコウの恋の結末。

 

 いつの間にか巻数を重ねていた本作も200話での完結まであと数話(2023年12月末時点)。登場人物のほとんどが舞台から去り残り少ない話数の中で、ナズナとコウは昼の世界の夢を見たり夜の海辺で遊んだりしてだらだらと過ごしている。

 前作『だがしかし』でもそうだったけれど、コトヤマ先生は物語終盤の寂寥感や弛緩した時間感覚の演出がずば抜けていると思う。しかもこの期間が現実の年の瀬と重なっているというミラクル。

 夜明けはもうすぐそこ……。

 

♪ 今 falling falling

二人ぼっち気づかない

カーテンコールにも 

 

 

4位 『付き合ってあげてもいいかな』

作・たみふる

連載中、既刊11巻

 

 破局したみわと冴子はそれぞれ新たな恋人との関係に四苦八苦する日々。彼女達の大学生活も終わりが近づいていた……。

 

 恋愛漫画のメイン2人が別れてからの方が物語が長くなっているというなかなか稀有な状況で、彼女達が真に安息を得られている時期がほぼないというストレスフルな作劇で、それでも終始面白く読めてしまうという凄い作品。

 読んでる間ずっと「じ、人生ままならねえ〜〜!」と呻いてばかり。でも読んじゃう。

 

 

3位 『盤王』

原作・綿引智也/作画・春夏冬画楽

連載中、既刊4巻

 

 数百年間ずっと将棋に魅せられてきた吸血鬼、彼は経営難に陥った将棋教室を救うため表舞台の「竜王戦」に挑む!

 

 もうコンセプトの時点で勝ってる作品で、しかも次々と出てくる強豪棋士達の生き様や棋戦も真っ当に面白い。本作に出会えた喜びを毎話噛み締めている。

 ちなみに超ハイレベルな棋戦の戦況を観戦者達(=読者)にどう理解させるかというのは将棋漫画の永遠のテーマだと思うけれど、本作は「現実でも実施されているAIによる形勢判断システムでどちらが何%優勢か視覚化する」という身も蓋もない一手(笑)。それでも読者を興醒めさせないしよりスムーズに勝負を演出できるという作者両名の自信と実力の表れだろう。

 あと物語に全く無関係に様子のおかしいリアクションを取り続ける約1名のキャラがこの漫画の屋台骨になっていて、何か納得いかないけど面白いんだよな……。

 

 

2位 『まったく最近の探偵ときたら

作・五十嵐正邦

連載中、既刊14巻

 

 かつての敏腕高校生探偵・名雲圭一郎は10数年後、体のあちこちにガタがきた中年探偵となっていた。そこへ女子高生の真白が助手として押しかけてきて……。

 

 笑った。とにかく笑った。久しぶりに漫画を読んで笑い過ぎで呼吸困難になるという体験をした。

 毎回話の展開自体がおかしくどのキャラも何かネジが外れていて、特に真白の常軌を逸した暴走が外れ無しに面白い。作者の圧倒的画力あってこそ。

 最新刊では名雲と宿敵がついに因縁の再会を果たすのだが、二人とも加齢による記憶力劣化ですれ違うという悲劇が涙を誘う……。

 

 

1位 『夢幻紳士 猟奇篇』

作・高橋葉介

連載中、未刊

 

 高橋葉介のライフワーク『夢幻紳士』シリーズ最新作。麗しの少年探偵・夢幻魔実也が毎回女装して怪事件を調査し毎回何やかんやで帝都が壊滅する!

 

 はい問答無用でこれが1位です。

 シリーズ前作の『夢幻童話篇』では魔実也の女性を惑わす気性に批判的視点を持ち込んだり、『魔実子さんが許さない』では魔実也の女性版を主人公にしてその存在を相対化したりと、高橋先生はここ数年で魔実也のキャラクター性を今一度再構築しようとしていたように思える。勿論今までも彼は作品ごとに容姿や性格をマイナーチェンジしてきたので(ゴジラや鬼太郎みたいなものですね)、また何度目かの「脱皮」の時期なのだろう。

 それでも今回は何十年ぶりかに少年の姿になり、しかも毎回女装姿をお披露目するというなかなかの急旋回。彼の男性性をめぐるテーマからは一気に後退したような気がしなくもないけれど(笑)、ここまでスラップスティックに振り切れてくれるとやはり猛烈に面白い。

 第2話は過去作「腸詰工場」がリファインされたストーリーで、そしてこれまで高橋作品で何度か登場しては毎回酷い目にあってきた「那由子」が今回は盛大に逆襲するという結末になっていて痛快。

 これからしばらくは様式美的な物語を進めつつ、最後にはまた夢が覚めていく儚さ・美しさを魅せてくれるのだろうという信頼がある。楽しみ。

 

 

ベスト10外だけど良かった作品

「ダンジョン×グルメ」という一発ネタからあれよあれよという間に世界観を掘り下げて堂々たる名作ファンタジーとして完結したダンジョン飯西尾維新のハッタリと大暮維人のビジュアル力が運命のシナジーを果たしていた化物語コミカライズ、1年で1話というペースになってしまったけど桁外れの立体戦闘表現で十分お釣りが来るFGO英霊剣豪七番勝負』コミカライズ、これはコミカライズというか一体何??と疑問符が乱れ飛ぶも暴力的な漫画の上手さで原作も読者も蹂躙してくる追放されたチート付与魔術師は気ままなセカンドライフ謳歌する。~俺は武器だけじゃなく、あらゆるものに『強化ポイント』を付与できるし、俺の意思でいつでも効果を解除できるけど、残った人たち大丈夫?~』、超美麗画力と引き換えにIQと品性を悪魔に売り渡したと思われる破廉恥妖魔アクション『紅椿妃』、キャンプ漫画だけど最新刊では新キャラ活躍とともに半分くらいロードバイク漫画になって新しい血を入れたゆるキャン△……等々



 はい、こんな感じの2023年漫画ベスト10でした。

 夜中にコーヒー飲んでしまって眠れないからとブログを書き進めていたらもう5時です。

 こんな大晦日でいいんでしょうか。よくないですね。

 来年(明日)からはちゃんとします。本当です。

 

 ちなみに今年は自分でも久しぶりにオリジナル創作の続きを描いていました。

 プロとは比べるべくもない下書き作品だけれどやはり自分で描いてみて初めて分かることもあり、漫画読みが大いに捗ったのも確かでした。

 来年も漫画摂取と創作を良い感じのバランスで続けていきたいですね。

 

 良かったら読んでみてね↓

 

『ぼっち・ざ・ろっく!』×『BLEACH 千年血戦篇』×『機動戦士ガンダム 水星の魔女』:乱反射する親子像

 『チェンソーマン』『スパイ×ファミリー』『モブサイコ100Ⅲ』『Do It Yourself!!』『うる星やつら』等、2022年秋クールのTVアニメは人気原作を満を持してアニメ化した大作や往年の名作のリメイクからオリジナルの意欲作までが観切れないほど数多く揃った、非常に楽しい3ヶ月だった*1

 中でも自分は『ぼっち・ざ・ろっく!』『BLEACH 千年血戦篇』『機動戦士ガンダム 水星の魔女』の3作品がお気に入りだった。作品全体に通してハマっていたのはもちろん、特に最終話でどうやって物語を終わらせて主人公を際立たせるのかが三者三様素晴らしかったのだ。ちなみに『BLEACH』と『水星の魔女』はそれぞれ分割の4クール作品と2クール作品だが、今期の1クール目だけでも単体評価できる締め括り方だった。さらにこれは自分の主観大いに込みだが、奇しくもどの作品も主人公とその親の関係が劇中で重要な役割を果たしていた。

 折角なのでここに各作品の振り返りと雑感を書き留めておこうと思う。

 

  ***

 

 

『ぼっち・ざ・ろっく!』

 まんがタイムきららMAXで連載されている4コマ漫画のアニメ化。

 ロックバンドに憧れギターを手にするも、コミュ障かつ自意識過剰という気質により高校まで「ぼっち」だった後藤ひとり。しかし偶然の出会いから下北沢の女子高校生バンドグループ「結束バンド」に加わることに……。

 

 3作の中でも最も好きになったのは本作。

 シンプルな描線のキャラを賑やかに動かす手描き作画から画風の七変化・実写・クレイアニメ・CGまで次々と繰り出してみせる映像演出の手数、音楽アニメ作品として最新鋭のライブシーン描写。その二つの強みを繋げているのが誰であろう主人公の「ぼっち」こと後藤ひとりだ。

 ひとりの暴走気味な自意識による妄想や奇行が作中世界の見え方にまで干渉して数々の奔放な映像表現が生まれ、一方で彼女が孤独な練習の末に「ギターヒーロー」と呼ばれるほどに卓越した演奏技術を身につけたという設定が、本来女子高生バンドとしては現実感のないはずの劇中楽曲やライブのハイレベルさにぎりぎりの説得力を与えている。ひとりの両極端なキャラクター性がそのまま作品の魅力の核になっているのだ。

 

 そして彼女を囲むメインキャラ達は「結束バンド」のメンバーである喜多郁代・伊地知虹夏・山田リョウ。さらに彼女達が本拠地とするライブハウスの店員や他バンドの人物等の人間関係を中心として物語は進んでいく。

 ひとりの家族(父・母・妹・犬)の出番はメインキャラほどではなく、さらに父親の後藤直樹はアニメの劇中では名前が呼称されず常に目元が隠され描かれないほど影が薄い。しかしこの父親こそが、後藤ひとりという主人公の形成に欠かせない存在だった。

 

 第1話で小学生のひとりはテレビの中で賞賛を浴びるロックバンドに触発され、かつてバンドをしていた父からギターを借り、そのまま何年も練習に励んでいくことになる。ギターヒーローとしてのひとりの出発点からして父なくしては生まれていなかった。

 そして第5話や第8話での本格的なライブシーンではひとりが父のギターを駆り演奏の盛り上がり所を担って活躍する。しかし第12話(最終話)の文化祭ライブでは、そのギターが長年の使用の末ついにパーツが壊れて弦が外れ、演奏に支障を来たす事態になってしまう。窮地に陥るひとりだが、それを乗り越えたのもボトルネック奏法で強引に弾きこなすという、やはり父のギターで培ってきたスキルによるものだった。

 ライブ後にギターを壊してしまったことをひとりは父に謝罪するが、彼は笑ってとりなし、むしろ彼女自身のギターを購入することを提案する。ひとりがギターヒーローの演奏動画配信をしているアカウントに父がこっそり広告収入設定をしておいたことにより、ギターを買うのには十分な収益が貯まっていた。父はひとりがギターの練習をがんばり上達していく様子が見れたことの喜びを語り、ひとりは感謝する。

 この場面は殊更に感動的には演出されておらず穏やかに映されている。直後にはひとりの虚言癖も見られていたというオチがついて締め括られる。他でも、ひとりのバンド活動を応援したりライブを観覧したりといった場面では父の様子はコメディタッチで描かれている。しかしその感動や涙は紛れもなく本物のはずだ。

 それは単なる子煩悩というだけではなく、深刻なレベルで社会不適合な性質を抱えていた娘が自分の可能性を見出しそれを確かなものにしていっていることに感激していた……とも捉えられるだろう。

 

 当初は家の押し入れの中で父からお下がりギターでソロ演奏をするのみ……という、父をふくめた家族(家)の中に籠っていたひとりは、最終話のラストで新たな自分専用のギターを背負って「行ってきます」と朝からバイトに出かける。さりげなく確実な彼女の親離れ・家からの巣立ちがここに描かれているのだ*2

 作品本編はあくまで結束バンドの4人をメインとして描かれているからこそ、その底流にあった父娘の物語がじんわりと沁み出してくる、良い締め括りだった*3

 

 

BLEACH 千年血戦篇』

 言わずと知れた00年代少年ジャンプの大ヒット作、その最終章を満を持してアニメ化。

 突如ソウルソサエティがユーハバッハ率いる滅却師達に襲撃を受ける。傷跡深い護廷十三隊や現世の面々は来たる本格的な戦いにそれぞれ備え、一護もまた力をつけるため霊王宮に向かった先で、彼は改めて自らのルーツを知ることになる……。

 

 白黒のコントラストやハッタリの効いた画面構成等、漫画媒体の特性を殊更に強みとしている『BLEACH』を色がつき動き回るアニメ作品にするにはどうすれば良いか。2004年〜2012年の最初のアニメ版を経て、その命題に今度こそスタッフが真正面から向き合い、少なくともこの1クール目でにおいてそれは成功していると言っても良いのではないか。

 その要因としては、旧アニメ版よりさらにキャラデザを原作のものに近づけた一方で、原作の数ある強烈なキメ絵をそのまま無理矢理にアニメにしようとはしていないというハンドリングがまず大きいだろう。

 例えば、第6話での山本元柳斎の卍解お披露目の場面。原作で鮮烈な見開きページになっていたのはその意外な刀身が現れるシーンだったが、新アニメ版ではその直前の轟々と燃え盛る炎がぱっと消え去り異様な静寂が訪れる瞬間にこそインパクトがもたらされるよう演出されている。その後も卍解で大気が乾燥していく様を画面の明度・露出を調整して伝えてみせたり、死者を復活させる能力の悍ましさを無機質なCGと音響で表現したりと、動画・音声を備えたアニメならではの作り込みに全力投球している*4

 さらに、BLEACHのビジュアルの代名詞と言えば死神達の衣装をはじめ作中の「黒」をベタ塗りで絶妙なシルエットとして表現していることだが、今回はむしろその黒に赤や青の光源に沿った色調の薄いライティングを入れている。それにより暗い場面でもキャラクターに立体感や映像としてのリッチさがもたらされ、新アニメ版独自の魅力になっている。

 その色彩設計の狙いが極まっていたのがやはり最終話だった。

 

 1クール目最終話となる第13話「The Blade Is Me」では、父と母の出会いと自らの出生の秘密を知った一護が決意を新たにするシーンから始まる。霊王宮の鍛冶場に連れて行かれた彼は、自分の斬魄刀を打ち直す際に更なる真実に直面することになる。それまで斬魄刀の化身として一護の中にあったはずの「斬月のオッサン」は、実は滅却師の力の根源……つまりユーハバッハと同じ存在だったのだ。

 そのことが開示された場面では、一護の精神世界で「斬月」が佇む背景の空はマゼンタ(赤寄りのピンク)に染まっている。この色は、この1クール目OPで印象的に使われている色だ。OPでは空とそこから降る雨がマゼンタカラーになっている。「雨」は一護が幼少期に母親を喪った時の記憶と強く結びついており、彼にとって悲しみや絶望の象徴だ。また同時にタイトルバックで現れる「千年"血"戦篇」というサブタイも相まって、それが戦禍で流される血のようにもイメージされるようになっている。そして劇中で旧アニメ版映像を流用した過去の場面がフラッシュバックされる際も、現在時間との差別化も兼ねて画面全体がマゼンタにフィルタリングされている。

 つまり本作においてマゼンタとは「雨」「血」「過去」であり、その色を「斬月」が背負って現れるということは、斬月が一護にとって宿敵のユーハバッハと同じだというこれ以上ない悲しみを引き起こすものであり・どうして向き合わなければならない過去の象徴になったという重層的な意味合いが色一つで表現されているのだ。

 

 斬月は一護が死神として覚醒してしまえば自分が敵対せざるを得ないことから一護の力を抑え込んでいたことを明かし、また一方で彼の成長に心動かされ続けていたことも吐露する。そして彼は一護のために自分が消え去るという選択を取る。この庇護と献身の精神は親から子へのそれと言って差し支えないだろう。

 斬月が中年男性の見た目をしており、もう一つの側面である虚も一護と同じ姿をしていることから、彼(ら)を親とするなら自然と「父親」として捉えられるかもしれない。だが滅却師の力も虚の力も母の真咲由来のものであることやその力が一護を戦いや悲しみから遠ざけ守ろうとした行動からすると、むしろ「母親」のような母性的存在だったとは言えないだろうか。

 斬月が遺した滅却師の青い霊圧が彩る世界で旧アニメ版からの一護のテーマソング「Number  one」が流れる中、一護は斬月に理解と感謝の言葉を述べ、暗闇を迷いなく進み出口に手を伸ばす。これも母体の中からの生まれ直しのようなイメージを喚起するものだ。

 そして場面は現実の鍛冶場へと戻り、一護が二刀になった真の斬月を引き抜いた瞬間、力の余波で鍛冶場の「水」が蒸発する*5。新たな斬月から放たれる霊圧の色は、滅却師の青と虚の赤が混ざって一護の髪色と同じオレンジへと変じる。さらにその輝きが水滴のようになって立ち昇っていく様は降雨の逆再生のように見える。一護がその力を完全に自分のものとし、幼少期から悲しみのメタファーである「雨」も克服したことがアニメならではの「色」と「動き」で見事に表現されている。

 

 原作ではここからいよいよ死神達と滅却師の最終決戦が始まるのだが、肝心の一護の活躍が最後まで煮え切られないものになったり、場面の間延び・省略が極端になったりと、当時は一読者として長期連載の畳み方の難しさを感じずにはいられなかった。

 しかしこの1クール目の出来栄えを見れば、アニメスタッフ陣が今こそ『BLEACH』を最良の形に仕上げてくれるのではないかと希望を持っている。

 

 

機動戦士ガンダム 水星の魔女』

 宇宙フロントに浮かぶモビルスーツ産業の人材育成機関「アスティカシア高等専門学園」に水星からの編入生スレッタ・マーキュリーがやってくる。スレッタは産業大手ベネリットグループ総裁の娘ミオリネ・レンブランを「花嫁」として、幼い頃から一心同体ガンダムエアリアル」で学園内のMS同士の「決闘」に挑んでいく……。

 

 『ぼっち・ざ・ろっく!』と『BLEACH千年血戦篇』がいずれも主人公と親(にあたる存在)の前向きな関係を描き出したのに対して、現時点ではそれをよりネガティヴかつ強固なものとして映しているのが『水星の魔女』だ。

 主人公であるスレッタは母のプロスペラと仲睦まじい関係にあるが、プロスペラが過去に直面した迫害・虐殺への復讐として娘を利用しているのではという疑惑が示唆されている。スレッタ自身も母への信頼が盲目的で危うさが垣間見える。そしてスレッタの花嫁となるミオリネの父デリングこそかつてプロスペラ達への攻撃を指示した張本人であり、ミオリネは父に反発して学園から脱して地球に行くことを目指している。

 スレッタが学園内の決闘で相手取るMS産業の御曹司達も、強権的な父の言いなりになることに鬱屈を抱えていたり(グエル)・親もいない使い捨ての人材として孤独感に苛まれていたり(エラン)・孤児だった自分を拾ってくれた義父に表面だけ従っていたり(シャディク)と、やはりそれぞれ親と良好とは言い難い関係にあったり関係そのものがあらかじめ喪われていたりしている。

 メインキャラの少年少女に皆親との複雑な関係を背負わせたフォーマットにより、ひるがえって彼らがあくまで「子ども」であることが強調され、決闘を軸としたぶつかり合いの中で彼らが親とどう向き合いその支配から脱していけるのか……というテーマが自然と立ち上がってくる。

 また、メイン2人のスレッタとミオリネという女性キャラ同士が、当初は形だけの「花婿・花嫁という関係だったところから数々の衝突や助け合いを経て真のパートナーとなっていく様子が丹念に描かれていった。

 

 そうした諸々の描写がひとまずの締め括りを迎えるであろうと思われていた1クール目最終話の第12話「逃げ出すよりも進むことを」だったが。

 終わってみれば、各々の親子関係を見つめ直しつつも同時に決定的な破局を迎えたりあるいは不穏の種を温存することになったり、何よりスレッタとミオリネに決定的な断絶が起こったりと、クライマックスというよりはカタストロフと形容すべき結末になった。

 

 地球寮の面々が出向いた先のベネリットグループの施設がシャディクの手引きでテロリストに襲撃される。

 その場に居合わせていたグエルは、混乱のどさくさの中MSで出撃した果てに父ヴィムが乗っていたMSを仕留めてしまう。一瞬の再会でグエルを案じていたことをヴィムが漏らすも、既に致命傷を受けていた彼はMSの爆発に消えていく。

 スレッタはミオリネと分断され、彼女を探す途中でテロリスト達に殺されそうになるが、プロスペラの介入で救われる。学園内の決闘ではない生死のかかった状況にスレッタは怯えるが、プロスペラから改めて「逃げたら一つ、進めば二つ」の信条を説かれ、ミオリネ達を救うために戦いに身を投じることを決める。状況だけ記せば主人公らしくヒロイックなものに見えるが、その会話の様子は母が幼い子どもを優しい言葉で言い包めるような白々しく不気味なものとして演出されている*6

 ミオリネは突如の攻撃からデリングに庇われ、その所為で重傷を負った彼に動揺しながら親愛の情をのぞかせる。そして突入してきた襲撃者がデリングの命を狙ってくると、今度はとっさに自分が盾になろうとする。グエルやスレッタに比べればミオリネと父の場面はまだ健全な和解のように映る。しかしこれによりミオリネが「デリングの子ども」としての在り方を強めてしまったことが直後のシーンに影響してくる。

 

 テロリストがミオリネごとデリングを殺害しようとしたところへエアリエルに搭乗したスレッタが現れ、「やめなさい!」とエアリアルの手で一瞬で叩き潰してしまう。そしてスレッタは自分の行いに動揺した様子も見せずミオリネの元に降り立ち、彼女へと笑顔で血に塗れた手を差し伸べる。

 スレッタはプロスペラの教えの通り「進めば二つ」を選び、その結果殺人を犯しても何の呵責や後悔もしていないように振る舞う。ミオリネはデリングがプロローグで「自ら奪った命の尊さとその罪を背負わなければいけない」と宣ったことに準じるように、スレッタが平然としていることに衝撃と恐怖を覚え「人殺し」と拒絶の言葉を発してしまう*7

 つまりここではスレッタとミオリネは個人同士というより「プロスペラの子ども」と「デリングの子ども」として彼らの対立を代理するようなかたちで対峙しているのだ。第11話ではミオリネがスレッタの胸元に顔を埋めたまま言葉を交わすることで「互いの顔を見ないで」「互いの思いを確かめ合う」構図だったが、第12話のこの場面では「互いの顔を正面から見つめ合って」「互いの思考が理解できない」に逆転している。

 スレッタの真正面からの笑顔のカットから切り返して恐怖に凍りつくミオリネが映される。彼女の体はフレームの外を向いているが、顔は正面(つまりスレッタの方)へ向けられ、カメラがゆっくりとそこへズームしていく。あたかもミオリネにとってスレッタの異様な精神性が逃げ場なく迫ってくるかのような撮り方だ。

 視聴者にとしても、心中が読めなくなったスレッタよりは一般的な感情を訴えるミオリネの方に感情移入して、改めてこのスレッタという主人公は何者なのかと戦慄とともに否応なく彼女を注視することになるだろう。

 

 この1クール目の終わり方、特にスレッタとミオリネの顛末について、「二人が限りなく近づいたからこそその根源的な断絶が可視化された」ととるか「それまでの信頼や共感の積み重ねがちゃぶ台返しされた」ととるかは視聴者によって意見が分かれるところだろう。実際、このラストに持っていくために第12話の展開が露骨に図式的なきらいは確かにある。だが自分は、いくつもの要素や関係性を徹底的に重ね合わせ反転させたこの構成美にこそ感銘を覚えた。

 ここからスレッタとミオリネそして彼女達含めて何組もの親子がいかにして関係を結び直し物語の終わりへ辿り着くのか、その道のりは途方もなく遠く険しいように思うが、続く2クール目を信じて待ちたい。

 

   ***

 

おわりに

 

 ……といった感じで、各作品を「主人公」「親子」の観点から語ってみた。

 やはりどの作品も「いかに主人公をこの作品・物語の中心人物として際立たせるか」というチャレンジが印象的だし、それを成功させるためには親(保護者)の存在とその関わり方が重要になるんだなあと強く感じた次第。父が主人公をさりげなく新たな日常に送り出した『ぼっち・ざ・ろっく!』、主人公が親的存在に別れを告げて新生した『BLEACH千年血戦篇』、親子関係が今はただ混迷の中にある『機動戦士ガンダム水星の魔女』。

 もちろん親キャラをあくまでサブ止まりにしたりその姿を全く描かずに成り立っている作品も数多ある。ただ、やはり親との関係描写(支配・超克)を経て主人公のビルドゥングスロマンを達成するというのは古典として残っているくらい強い方式の一つなんだと思う。特に未成年をメインキャラとする作品においては*8

 

 『ぼっち・ざ・ろっく!』はアニメ作品としては一旦完結したが、これだけ人気となれば2期もいずれ作られるだろう。原作のその後では、さらに作中時間が進んで結束バンドの面々が本格的にバンドで身を立てるためのフェス応募やレーベル所属、進学等を描いていくことになる。そうした自立に向けた物語が進むほどに、発端となる後藤ひとりと父の関係が重要性を帯びていくだろう。『BLEACH』も今後は改めて敵としての「父」「祖」のユーハバッハを倒す戦いに踏み込んでいく。『水星の魔女』はスレッタとミオリネそれぞれの親との決着、そして父を手にかけるという物語を「終えてしまった」グエルの存在が劇中でどうなるのかが気になるところ。

 それぞれの物語がまた区切りを迎えた際には、この記事の続きを書く時もあるかもしれない。

 

 

*1:配信作品ではネトフリでの『ジョジョの奇妙な冒険』第6部最終クールもあった

*2:また、本作はひとりの父以外にも虹夏の姉でありライブハウスの店長である星歌や新宿のバンドベーシスト廣井など、他の大人達もひとりを見守り背中を押してくれる。大人達はだいたい皆情けなかったり社会的に真っ当でなかったりするが基本的に未成年の味方であるというのが『ぼざろ』の特長だ。

*3:ちなみにアニメで少し語られ、単行本最新5巻で番外編として収録されたエピソードでは、星歌が母親を亡くした虹夏の親代わりとなって彼女のためにライブハウスを立ち上げたことが明かされている。陰ながら保護者に音楽に関わる後押しを受けていたという点ではひとりと虹夏は相似形であり、だからこそ虹夏が早いうちからひとりのギターヒーローという正体を見抜き自分の夢を明かすに至ったのかもしれない。

*4:他にも、第10話で卯ノ花烈が剣八との死闘の果てに卍解するシーン。ここでもその絵面だけをキメとするのではなく、原作では黒塗りの小さな1コマだけだった卯ノ花の「卍解」と唱える瞬間、その声音の恐ろしさにこそ重きを置くように声優の迫真の発声と真っ黒な画面の合わせ技にしていた。

*5:本作は旧アニメ版からのレギュラーキャスト陣の堂に入った好演が懐かしくも嬉しい中、今回から新登場した二枚屋王悦を演じる上田耀司が負けず劣らず素晴らしい。最初の能天気な振る舞いから一転して、一護に真実を告げて最後に彼を肯定するまで、優れた劇伴のようにその場のテンションを盛り立てる役目をこれ以上なく果たしてくれていた。

*6:ここでオープニング主題歌「祝福」のピアノアレンジが流れているのだが、「祝福」の歌詞がストレートに明るいものなだけに、それをコーティングされているものは何なのか……という裏読みに繋げられるようになっている。

*7:ミオリネのスレッタへの態度の変化も前話から急すぎるようにもとれるが、彼女がスレッタと離れ離れになってからずっと非常時の中にありほぼ恐慌状態だったこと、テロリストでさえも彼女ごと殺すことに躊躇いを見せていたこと等で、この拒絶に至る導線は確かに敷かれているのだ。

*8:つい最近も長年の試行錯誤の果てに父と息子の対話で以て完結を迎えたシリーズがあったが、あれは自分としては……まあいいや

『映画 ゆるキャン△』感想覚書:あの頃の未来にぼくらは

 言わずと知れた大人気作品のアニメ映画版。

 劇場鑑賞した時は勿論、先日にアマプラに入ったので再見した時も少しも魅力が衰えない本作の地力を再確認した。

 以下、改めて感想を書いておく。

 

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『心霊マスターテープ』シリーズ感想覚書:「あなたの目に今見えているものは、何?」

 2020年にエンタメ〜テレ制作で放送されたホラードラマ『心霊マスターテープ』。その後続編の2作目『心霊マスターテープ2 ~念写~』、3作目『心霊マスターテープ -EYE-』が作られシリーズ化している。

 自分はこのシリーズを2作目で初めて知り、遡って1作目にふれ、3作目をリアルタイムで視聴する頃にはすっかりハマっていた。

 以下に各作品の感想を残しておきたい。

 結末までのネタバレあり。

 

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『トップガン マーヴェリック』感想覚書:米海軍追放寸前の伝説パイロット、トップガン教官として若者達を無双スキルで修行させます!?〜親友の息子と和解、元カノとも復縁しちゃうかも〜

 自分がトム・クルーズというハリウッドスターを認識したのはいつのことだったか。

 彼の出演作を初めて観たのは確か『宇宙戦争』だったが、その時は演じている役者のことには無関心で、ムービーウォッチメン伝いに鑑賞した『オール・ユー・ニード・イズ・キル』がトムをトムとして意識して観た最初の記憶だったと思う。

 その時にはトムはもう50代に入っていて、軽薄な中年男が重そうなバトルスーツをつけて何度も死にまくるというトンチキな映画だった。話も話なので初見のトムは決してストレートにカッコ良くはなくて、情けなく弱音を吐きながら必死に戦場を転げ回る。しかしそれでも尚隠せないスターの華……というか「愛嬌」を感じたのをはっきり覚えている。

 その後彼の私生活や入信している宗教等の醜聞を知ることにもなるが、スクリーンの中で誰よりも体を張って映画を面白くしようとする姿には否応なく好感を持っていった。

 

 そして今回の『トップガン マーヴェリック』である。

 最初はほとんど何も前情報無しで臨み、その後IMAXで2回目を観て、そしてやっと1作目『トップガン』を観て今に至る。その上での感想を以下に。

 

 ***

 

 〈あらすじ〉

 アメリカ海軍のエリートパイロット養成学校トップガンに、伝説のパイロット、マーヴェリックが教官として帰ってきた。空の厳しさと美しさを誰よりも知る彼は、守ることの難しさと戦うことの厳しさを教えるが、訓練生たちはそんな彼の型破りな指導に戸惑い反発する。その中には、かつてマーヴェリックとの訓練飛行中に命を落とした相棒グースの息子ルースターの姿もあった。ルースターはマーヴェリックを恨み、彼と対峙するが……。(映画.comより)

 

 「冒頭の戦闘機の発艦・着艦風景」「バーで絡んだ人物とトップガンで教官として再会する」「ビーチスポーツ」等日々、本作は1作目の大筋や個々の場面をなぞりつつ時に人物の関係を入れ替えて進行する。しかし決定的に異なりグレードアップしているのが、戦闘機で飛行するシーンの数々だ。

 1作目でも米海軍の協力はあっただろうが、それでも俳優が実際に戦闘機を駆るわけにもいかないので、飛行する戦闘機を外から捉えた絵面と機内のパイロット達の描写が断絶していたり飛行によってGがかかる様子はカメラ自体の回転でごまかしていたりと、どうしても撮影の限界が垣間見えていた。

 それが今回では、役者としてだけではなくプロデューサーとしても権限を得たトム・クルーズによってパイロット役の俳優達に軍の飛行訓練プログラムが課され、「飛行シーンでは実際に俳優が搭乗して演技をする」するという状況が実現してしまった。カメラは音速で過ぎ去る風景を、音響はエンジン音や風鳴りを確かに捉え、そして俳優達は戦闘機の縦横無尽の機動による現実のGを受けて迫真の演技どころではない本物の苦悶の表情と息遣いを残す。これによって1作目とは段違いの臨場感が生まれている。

 

 そうしたスペクタクルだけでも鑑賞料金のお釣りが返ってくるところだが、自分がこの映画に感心したのはそれ以上のストーリー構成のスマートさだ。

 本作のクライマックスでは訓練ではない本物の極秘ミッションで目標施設の爆破・敵機との空中戦が描かれる。いかに飛行シーンの迫力が凄まじくても、戦闘のシチュエーションの見せ方が拙ければ何が行われているかも分からずカタルシスを感じることもなくなってしまうだろう。

 その危険に対して本作は、どうしているか。序盤で作戦内容を明らかにして中盤をほぼひたすら訓練場面に費やすことで「作戦がどんな地形・ルート・手順で実行されるのか」を執拗に観客に刻み込む。そしてトップガンの訓練生達がシミュレーションでは何度も失敗してしまうことでその作戦がいかに実行困難かも示され、果たして本番で彼らは生還できるのかというサスペンスも高められていく*1

 また、飛行以外の場面では引きの画があまり無く、登場人物の顔のクローズアップががかなり多い。それによってヘルメットとマスクでパイロットの髪や顔の下半分が隠れる機内でも誰が誰だか区別できるようになっている*2

 そうして映画の大半の時間が「本番」に向けた観客にとっての「訓練」に割かれているために、いざクライマックスで目まぐるしい空戦アクションが繰り広げられても極力混乱せずに展開を追うことができるのだ。こうした作りはジャンルや規模は全く違えど山田尚子監督の『リズと青い鳥』を思い出したりした。

 莫大な予算と手間をかけてただ一個の映画として観客をフルに楽しみ切らせようという、極限まで無駄を削ぎ落としたまさに最新鋭の戦闘機のような作品だった。

 

 ただ全く瑕疵のない映画というわけでもなく。

 『トップガン』1作目の冒頭で印象的なシーンがある。若き日のマーヴェリックは洋上でミグ戦闘機と空中戦を繰り広げる。彼は戦闘の最中敵機のコックピットと数メートルの距離まで接近し、ポラロイドカメラで相手の写真を撮ってみせる。これは彼の天才的な操縦の腕や恐いもの知らずな性格を見せつけるものだが、ある意味彼が敵を人間として捉え、相手が何者なのかを知ろうとした行動だ。そしてクライマックスの戦闘はあくまで味方の救出・防衛が目的であり、こちらから先制攻撃はしないというものだった。

 それが今作では、「ならず者国家」の違法核施設を破壊するという名目で交渉も何もすっ飛ばして予告無しの空爆を仕掛けるというクライマックスになっている。マーヴェリックは敵パイロットの姿を知ろうとする素振りも見せず、敵基地に生身で乗り込む際には現地の軍人達は雪煙に紛れて都合よく見つけられない。

 前作でも今作でも作品のシンプルなエンタメ性のために敵を明確に描写しないという方針は変わっていない。しかし今作ではそれをより純化し突き詰めた結果、よりプロパガンダ的・自閉的に傾いてしまったのは事実だろう。

 

 もちろん、トム・クルーズはじめ制作陣はそんなことは百も承知でこの映画を「都合の良い夢」に仕上げることに全力を尽くしているのだろう。

 実際、この物語はマーヴェリックの夢なのでは?と思わせるポイントが二つある。冒頭の新型戦闘機のテスト飛行で限界速度を超えて空中分解した時、そしてクライマックスでルースターを庇って撃墜された時。

 あの瞬間にもうマーヴェリックは死んでしまったのではないか?という疑いがわざと残されている。そこから先の素晴らしい映画的瞬間の数々は彼が……最後の肉体派映画スターのトム・クルーズが、否、映画そのものが、もう今のままではいられなくなる臨終間際に観た夢だったのではないか、と……。

 

 

 

  

 

*1:訓練生達がシミュレーション中で何度も死亡しながら必死にスキルアップしていく様子は、それこそトムが死に覚えゲー的に強くなっていく『オール・ユー・ニード・イズ・キル』を彷彿とさせた。

*2:逆にビーチスポーツに興じる若者達を全身を映すシーンでは彼らは皆サングラスをかけて顔の上半分を隠していて、ただ無邪気に躍動する肉体だけをスクリーンに残す。そしてマーヴェリックと元カノのベッドシーンでは二人の全身は映さずにほとんど顔だけをカメラが捉えていた。この対比に実は本作の本当に大事な何かが示されていると思うのだが、まだ語る言葉がない。

『犬王』感想覚書:語られざるKING OF STAGE

もし これが音楽じゃなくて もしただの騒音だとしても

もし 届くなら届けよう その先の景色見届けよう

もし それが現実じゃなくて もし ただの幻想だとしても

もし 届くなら届けよう その先の景色見届けよう

(RHYMESTER - 「ラストヴァース」より)

 

以下、感想。

 

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 自分は今年3月に『平家物語』を視聴した。言わずと知れた古典『平家物語』の古川日出男による現代語訳版を基にした山田尚子監督・サイエンスSARU制作の作品だ。

 そして、古川日出男が『平家物語』の翻訳作業の中で生み出したフィクション『平家物語 犬王の巻』をやはりサイエンスSARUが劇場アニメ化したのが本作『犬王』だ。

 権力者達の栄枯盛衰に注視して彼らの姿を「語ること」「語られてきたこと」の意味そのものをフィーチャーしたのがアニメ版『平家物語』であるのに対して、『犬王』では権力に追いやられ利用された側が「語り残すこともできなかった」ことこそを語らんとしている。

 『犬王』の冒頭が琵琶法師の語りから始まるのはあたかも『平家物語』のラストからシームレスに続いているかのようだ。この2作をセットで観ることで改めて見えてくるものがあるだろう。

 

 さて、改めて『犬王』メインの感想だが、圧巻のロックミュージカルだった。

 時は足利時代初期。平家の遺物の呪いにより盲目となった琵琶法師・友魚。猿楽一座の家に異形の姿で生まれた犬王。二人はコンビを組んで型破りな演目を披露し京の都に名を轟かせていく。

 友魚と犬王が仕掛ける「ライブ」の描写がこの映画の肝であり最大の売りだ。

 友魚は琵琶法師、犬王は能楽師ではあるが彼らの様子は時代考証をふまえた上で盛大に盛って現代のロックバンドのように描かれている。琵琶はエレキサウンドとして鳴り響き歌は荒々しくがなり立てる。犬王は特異な身体を活かして超人的に踊り狂う。そして彼ら自身の演奏・ダンス・歌唱だけでなく、そのステージに毎回大掛かりなギミックが施されているのも大事な見どころだ。舞台の床下から小道具を動かしたり大きな垂れ幕に灯で図像を投影したりと、立体的な演出の数々がそのまま映像の楽しさに繋がっている。

 それらを総合した豪華絢爛なライブパフォーマンスが観客達は観ているだけで我慢できなくなり、友魚達の煽りにコールで応えたり、自身も踊り出したりと熱狂していく。

 そうした演者と観客が一体となったライブの興奮が渾身の作画で描き出されている。このシーケンスを目撃した衝撃は今年観た映画の中でも随一だった。

 

 ……といった感じに大変素晴らしいライブ描写であり、実際自分は大いに楽しんだわけなのだが、一方でその間ずっと煮え切らなさを感じてもいた。

 友魚と犬王は京の橋で出会うなり即興で琵琶と能楽のセッションを演じ意気投合する。ここの奔放なアニメーションと湯浅監督が得意とする気の良い若者同士の交歓描写は本当に良く、「なるほどこれから二人がベストバディとして京の芸能シーンを駆け上がっていくわけだな」と観る者は期待するのだが、それからの本格的なライブになると二人が一つのフレームに収まってライブをするカットがほとんないのだ。というか、明らかに意図的に排除されている。数々のライブで琵琶を演奏し唄う友魚と踊る犬王は別々に映され、クライマックスの舞台でも犬王が単独でステージを飛び回る中友魚が一ヶ所に留まって動かない。

 勿論巧みな編集でライブはしっかり盛り上がりを以て描かれるし、ライブではない平場では彼らは同フレーム内でちゃんと友情を育んでいく。それなのにライブ中のこの頑なな分断はどういうことなんだろうと引っかかってしまい、ライブ中も頭の片隅が冷めている自分がいた。

 

 しかし本作の結末を見届けた今遡って考えると、そのアンチカタルシスにだいぶ納得がいった。

 犬王の身体の呪いは次々と解かれ友魚も充実し、彼らは時の将軍足利義満の御前でライブをするまでに上り詰める。しかし彼らの民衆への求心力が幕府の支配を揺るがすことを危惧した義満により、友魚の一座は無理矢理解散させられ、犬王は演目の肝である平家物語の異伝を語ることを禁じられてしまう。その決定にしたがった犬王と反抗した友魚はそのまま死に別れることになる。

 二人のライブパフォーマンスやその核となっていた亡霊達の声なき声は、根こそぎ権力や歴史といった大いなるものに奪い去られてしまう。

 そして数百年が過ぎた現代の夜に場面が映り、共に霊魂となった友魚と犬王が再会する。二人は初めて出会った時の姿に戻り、もう一度セッションを果たしたところで映画は終わる。

 結局、彼らがただ純粋に芸能の楽しみだけで、そして同一フレーム内で共に歌い踊ったのは、この最初と最後だけではなかったか。京でのライブの日々は「亡霊達の声を代弁するため」「犬王の呪いを解くため」「為政者に自分達を認めさせるため」といった目的・大義が常に存在していた。そしてそれは最後には奪われるものであり、だからこそそこに二人の本当に大切な瞬間を置けなかったのではないか。

 

 マスに訴えかけるためのエンタメ作品としての火力を減じてでも物語テーマの核心を保守したのを、作劇の倫理と見るか粗と見るかは難しいところだ。実際自分はこの構成により本作を100%楽しんだとは言えないが、好ましさはそれ以上にある。

 語ること、歌い踊り奏でること、何よりそれらを誰かと共有すること、何を置いてもそれを一番に大事にするよと言う作品を、嫌いになれるはずもないのだ。