『ぼっち・ざ・ろっく!』×『BLEACH 千年血戦篇』×『機動戦士ガンダム 水星の魔女』:乱反射する親子像
『チェンソーマン』『スパイ×ファミリー』『モブサイコ100Ⅲ』『Do It Yourself!!』『うる星やつら』等、2022年秋クールのTVアニメは人気原作を満を持してアニメ化した大作や往年の名作のリメイクからオリジナルの意欲作までが観切れないほど数多く揃った、非常に楽しい3ヶ月だった*1。
中でも自分は『ぼっち・ざ・ろっく!』『BLEACH 千年血戦篇』『機動戦士ガンダム 水星の魔女』の3作品がお気に入りだった。作品全体に通してハマっていたのはもちろん、特に最終話でどうやって物語を終わらせて主人公を際立たせるのかが三者三様素晴らしかったのだ。ちなみに『BLEACH』と『水星の魔女』はそれぞれ分割の4クール作品と2クール作品だが、今期の1クール目だけでも単体評価できる締め括り方だった。さらにこれは自分の主観大いに込みだが、奇しくもどの作品も主人公とその親の関係が劇中で重要な役割を果たしていた。
折角なのでここに各作品の振り返りと雑感を書き留めておこうと思う。
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『ぼっち・ざ・ろっく!』
まんがタイムきららMAXで連載されている4コマ漫画のアニメ化。
ロックバンドに憧れギターを手にするも、コミュ障かつ自意識過剰という気質により高校まで「ぼっち」だった後藤ひとり。しかし偶然の出会いから下北沢の女子高校生バンドグループ「結束バンド」に加わることに……。
3作の中でも最も好きになったのは本作。
シンプルな描線のキャラを賑やかに動かす手描き作画から画風の七変化・実写・クレイアニメ・CGまで次々と繰り出してみせる映像演出の手数、音楽アニメ作品として最新鋭のライブシーン描写。その二つの強みを繋げているのが誰であろう主人公の「ぼっち」こと後藤ひとりだ。
ひとりの暴走気味な自意識による妄想や奇行が作中世界の見え方にまで干渉して数々の奔放な映像表現が生まれ、一方で彼女が孤独な練習の末に「ギターヒーロー」と呼ばれるほどに卓越した演奏技術を身につけたという設定が、本来女子高生バンドとしては現実感のないはずの劇中楽曲やライブのハイレベルさにぎりぎりの説得力を与えている。ひとりの両極端なキャラクター性がそのまま作品の魅力の核になっているのだ。
そして彼女を囲むメインキャラ達は「結束バンド」のメンバーである喜多郁代・伊地知虹夏・山田リョウ。さらに彼女達が本拠地とするライブハウスの店員や他バンドの人物等の人間関係を中心として物語は進んでいく。
ひとりの家族(父・母・妹・犬)の出番はメインキャラほどではなく、さらに父親の後藤直樹はアニメの劇中では名前が呼称されず常に目元が隠され描かれないほど影が薄い。しかしこの父親こそが、後藤ひとりという主人公の形成に欠かせない存在だった。
第1話で小学生のひとりはテレビの中で賞賛を浴びるロックバンドに触発され、かつてバンドをしていた父からギターを借り、そのまま何年も練習に励んでいくことになる。ギターヒーローとしてのひとりの出発点からして父なくしては生まれていなかった。
そして第5話や第8話での本格的なライブシーンではひとりが父のギターを駆り演奏の盛り上がり所を担って活躍する。しかし第12話(最終話)の文化祭ライブでは、そのギターが長年の使用の末ついにパーツが壊れて弦が外れ、演奏に支障を来たす事態になってしまう。窮地に陥るひとりだが、それを乗り越えたのもボトルネック奏法で強引に弾きこなすという、やはり父のギターで培ってきたスキルによるものだった。
ライブ後にギターを壊してしまったことをひとりは父に謝罪するが、彼は笑ってとりなし、むしろ彼女自身のギターを購入することを提案する。ひとりがギターヒーローの演奏動画配信をしているアカウントに父がこっそり広告収入設定をしておいたことにより、ギターを買うのには十分な収益が貯まっていた。父はひとりがギターの練習をがんばり上達していく様子が見れたことの喜びを語り、ひとりは感謝する。
この場面は殊更に感動的には演出されておらず穏やかに映されている。直後にはひとりの虚言癖も見られていたというオチがついて締め括られる。他でも、ひとりのバンド活動を応援したりライブを観覧したりといった場面では父の様子はコメディタッチで描かれている。しかしその感動や涙は紛れもなく本物のはずだ。
それは単なる子煩悩というだけではなく、深刻なレベルで社会不適合な性質を抱えていた娘が自分の可能性を見出しそれを確かなものにしていっていることに感激していた……とも捉えられるだろう。
当初は家の押し入れの中で父からお下がりギターでソロ演奏をするのみ……という、父をふくめた家族(家)の中に籠っていたひとりは、最終話のラストで新たな自分専用のギターを背負って「行ってきます」と朝からバイトに出かける。さりげなく確実な彼女の親離れ・家からの巣立ちがここに描かれているのだ*2。
作品本編はあくまで結束バンドの4人をメインとして描かれているからこそ、その底流にあった父娘の物語がじんわりと沁み出してくる、良い締め括りだった*3。
『BLEACH 千年血戦篇』
言わずと知れた00年代少年ジャンプの大ヒット作、その最終章を満を持してアニメ化。
突如ソウルソサエティがユーハバッハ率いる滅却師達に襲撃を受ける。傷跡深い護廷十三隊や現世の面々は来たる本格的な戦いにそれぞれ備え、一護もまた力をつけるため霊王宮に向かった先で、彼は改めて自らのルーツを知ることになる……。
白黒のコントラストやハッタリの効いた画面構成等、漫画媒体の特性を殊更に強みとしている『BLEACH』を色がつき動き回るアニメ作品にするにはどうすれば良いか。2004年〜2012年の最初のアニメ版を経て、その命題に今度こそスタッフが真正面から向き合い、少なくともこの1クール目でにおいてそれは成功していると言っても良いのではないか。
その要因としては、旧アニメ版よりさらにキャラデザを原作のものに近づけた一方で、原作の数ある強烈なキメ絵をそのまま無理矢理にアニメにしようとはしていないというハンドリングがまず大きいだろう。
例えば、第6話での山本元柳斎の卍解お披露目の場面。原作で鮮烈な見開きページになっていたのはその意外な刀身が現れるシーンだったが、新アニメ版ではその直前の轟々と燃え盛る炎がぱっと消え去り異様な静寂が訪れる瞬間にこそインパクトがもたらされるよう演出されている。その後も卍解で大気が乾燥していく様を画面の明度・露出を調整して伝えてみせたり、死者を復活させる能力の悍ましさを無機質なCGと音響で表現したりと、動画・音声を備えたアニメならではの作り込みに全力投球している*4。
さらに、BLEACHのビジュアルの代名詞と言えば死神達の衣装をはじめ作中の「黒」をベタ塗りで絶妙なシルエットとして表現していることだが、今回はむしろその黒に赤や青の光源に沿った色調の薄いライティングを入れている。それにより暗い場面でもキャラクターに立体感や映像としてのリッチさがもたらされ、新アニメ版独自の魅力になっている。
その色彩設計の狙いが極まっていたのがやはり最終話だった。
1クール目最終話となる第13話「The Blade Is Me」では、父と母の出会いと自らの出生の秘密を知った一護が決意を新たにするシーンから始まる。霊王宮の鍛冶場に連れて行かれた彼は、自分の斬魄刀を打ち直す際に更なる真実に直面することになる。それまで斬魄刀の化身として一護の中にあったはずの「斬月のオッサン」は、実は滅却師の力の根源……つまりユーハバッハと同じ存在だったのだ。
そのことが開示された場面では、一護の精神世界で「斬月」が佇む背景の空はマゼンタ(赤寄りのピンク)に染まっている。この色は、この1クール目OPで印象的に使われている色だ。OPでは空とそこから降る雨がマゼンタカラーになっている。「雨」は一護が幼少期に母親を喪った時の記憶と強く結びついており、彼にとって悲しみや絶望の象徴だ。また同時にタイトルバックで現れる「千年"血"戦篇」というサブタイも相まって、それが戦禍で流される血のようにもイメージされるようになっている。そして劇中で旧アニメ版映像を流用した過去の場面がフラッシュバックされる際も、現在時間との差別化も兼ねて画面全体がマゼンタにフィルタリングされている。
つまり本作においてマゼンタとは「雨」「血」「過去」であり、その色を「斬月」が背負って現れるということは、斬月が一護にとって宿敵のユーハバッハと同じだというこれ以上ない悲しみを引き起こすものであり・どうして向き合わなければならない過去の象徴になったという重層的な意味合いが色一つで表現されているのだ。
斬月は一護が死神として覚醒してしまえば自分が敵対せざるを得ないことから一護の力を抑え込んでいたことを明かし、また一方で彼の成長に心動かされ続けていたことも吐露する。そして彼は一護のために自分が消え去るという選択を取る。この庇護と献身の精神は親から子へのそれと言って差し支えないだろう。
斬月が中年男性の見た目をしており、もう一つの側面である虚も一護と同じ姿をしていることから、彼(ら)を親とするなら自然と「父親」として捉えられるかもしれない。だが滅却師の力も虚の力も母の真咲由来のものであることやその力が一護を戦いや悲しみから遠ざけ守ろうとした行動からすると、むしろ「母親」のような母性的存在だったとは言えないだろうか。
斬月が遺した滅却師の青い霊圧が彩る世界で旧アニメ版からの一護のテーマソング「Number one」が流れる中、一護は斬月に理解と感謝の言葉を述べ、暗闇を迷いなく進み出口に手を伸ばす。これも母体の中からの生まれ直しのようなイメージを喚起するものだ。
そして場面は現実の鍛冶場へと戻り、一護が二刀になった真の斬月を引き抜いた瞬間、力の余波で鍛冶場の「水」が蒸発する*5。新たな斬月から放たれる霊圧の色は、滅却師の青と虚の赤が混ざって一護の髪色と同じオレンジへと変じる。さらにその輝きが水滴のようになって立ち昇っていく様は降雨の逆再生のように見える。一護がその力を完全に自分のものとし、幼少期から悲しみのメタファーである「雨」も克服したことがアニメならではの「色」と「動き」で見事に表現されている。
原作ではここからいよいよ死神達と滅却師の最終決戦が始まるのだが、肝心の一護の活躍が最後まで煮え切られないものになったり、場面の間延び・省略が極端になったりと、当時は一読者として長期連載の畳み方の難しさを感じずにはいられなかった。
しかしこの1クール目の出来栄えを見れば、アニメスタッフ陣が今こそ『BLEACH』を最良の形に仕上げてくれるのではないかと希望を持っている。
『機動戦士ガンダム 水星の魔女』
宇宙フロントに浮かぶモビルスーツ産業の人材育成機関「アスティカシア高等専門学園」に水星からの編入生スレッタ・マーキュリーがやってくる。スレッタは産業大手ベネリットグループ総裁の娘ミオリネ・レンブランを「花嫁」として、幼い頃から一心同体ガンダム「エアリアル」で学園内のMS同士の「決闘」に挑んでいく……。
『ぼっち・ざ・ろっく!』と『BLEACH千年血戦篇』がいずれも主人公と親(にあたる存在)の前向きな関係を描き出したのに対して、現時点ではそれをよりネガティヴかつ強固なものとして映しているのが『水星の魔女』だ。
主人公であるスレッタは母のプロスペラと仲睦まじい関係にあるが、プロスペラが過去に直面した迫害・虐殺への復讐として娘を利用しているのではという疑惑が示唆されている。スレッタ自身も母への信頼が盲目的で危うさが垣間見える。そしてスレッタの花嫁となるミオリネの父デリングこそかつてプロスペラ達への攻撃を指示した張本人であり、ミオリネは父に反発して学園から脱して地球に行くことを目指している。
スレッタが学園内の決闘で相手取るMS産業の御曹司達も、強権的な父の言いなりになることに鬱屈を抱えていたり(グエル)・親もいない使い捨ての人材として孤独感に苛まれていたり(エラン)・孤児だった自分を拾ってくれた義父に表面だけ従っていたり(シャディク)と、やはりそれぞれ親と良好とは言い難い関係にあったり関係そのものがあらかじめ喪われていたりしている。
メインキャラの少年少女に皆親との複雑な関係を背負わせたフォーマットにより、ひるがえって彼らがあくまで「子ども」であることが強調され、決闘を軸としたぶつかり合いの中で彼らが親とどう向き合いその支配から脱していけるのか……というテーマが自然と立ち上がってくる。
また、メイン2人のスレッタとミオリネという女性キャラ同士が、当初は形だけの「花婿・花嫁という関係だったところから数々の衝突や助け合いを経て真のパートナーとなっていく様子が丹念に描かれていった。
そうした諸々の描写がひとまずの締め括りを迎えるであろうと思われていた1クール目最終話の第12話「逃げ出すよりも進むことを」だったが。
終わってみれば、各々の親子関係を見つめ直しつつも同時に決定的な破局を迎えたりあるいは不穏の種を温存することになったり、何よりスレッタとミオリネに決定的な断絶が起こったりと、クライマックスというよりはカタストロフと形容すべき結末になった。
地球寮の面々が出向いた先のベネリットグループの施設がシャディクの手引きでテロリストに襲撃される。
その場に居合わせていたグエルは、混乱のどさくさの中MSで出撃した果てに父ヴィムが乗っていたMSを仕留めてしまう。一瞬の再会でグエルを案じていたことをヴィムが漏らすも、既に致命傷を受けていた彼はMSの爆発に消えていく。
スレッタはミオリネと分断され、彼女を探す途中でテロリスト達に殺されそうになるが、プロスペラの介入で救われる。学園内の決闘ではない生死のかかった状況にスレッタは怯えるが、プロスペラから改めて「逃げたら一つ、進めば二つ」の信条を説かれ、ミオリネ達を救うために戦いに身を投じることを決める。状況だけ記せば主人公らしくヒロイックなものに見えるが、その会話の様子は母が幼い子どもを優しい言葉で言い包めるような白々しく不気味なものとして演出されている*6。
ミオリネは突如の攻撃からデリングに庇われ、その所為で重傷を負った彼に動揺しながら親愛の情をのぞかせる。そして突入してきた襲撃者がデリングの命を狙ってくると、今度はとっさに自分が盾になろうとする。グエルやスレッタに比べればミオリネと父の場面はまだ健全な和解のように映る。しかしこれによりミオリネが「デリングの子ども」としての在り方を強めてしまったことが直後のシーンに影響してくる。
テロリストがミオリネごとデリングを殺害しようとしたところへエアリエルに搭乗したスレッタが現れ、「やめなさい!」とエアリアルの手で一瞬で叩き潰してしまう。そしてスレッタは自分の行いに動揺した様子も見せずミオリネの元に降り立ち、彼女へと笑顔で血に塗れた手を差し伸べる。
スレッタはプロスペラの教えの通り「進めば二つ」を選び、その結果殺人を犯しても何の呵責や後悔もしていないように振る舞う。ミオリネはデリングがプロローグで「自ら奪った命の尊さとその罪を背負わなければいけない」と宣ったことに準じるように、スレッタが平然としていることに衝撃と恐怖を覚え「人殺し」と拒絶の言葉を発してしまう*7。
つまりここではスレッタとミオリネは個人同士というより「プロスペラの子ども」と「デリングの子ども」として彼らの対立を代理するようなかたちで対峙しているのだ。第11話ではミオリネがスレッタの胸元に顔を埋めたまま言葉を交わすることで「互いの顔を見ないで」「互いの思いを確かめ合う」構図だったが、第12話のこの場面では「互いの顔を正面から見つめ合って」「互いの思考が理解できない」に逆転している。
スレッタの真正面からの笑顔のカットから切り返して恐怖に凍りつくミオリネが映される。彼女の体はフレームの外を向いているが、顔は正面(つまりスレッタの方)へ向けられ、カメラがゆっくりとそこへズームしていく。あたかもミオリネにとってスレッタの異様な精神性が逃げ場なく迫ってくるかのような撮り方だ。
視聴者にとしても、心中が読めなくなったスレッタよりは一般的な感情を訴えるミオリネの方に感情移入して、改めてこのスレッタという主人公は何者なのかと戦慄とともに否応なく彼女を注視することになるだろう。
この1クール目の終わり方、特にスレッタとミオリネの顛末について、「二人が限りなく近づいたからこそその根源的な断絶が可視化された」ととるか「それまでの信頼や共感の積み重ねがちゃぶ台返しされた」ととるかは視聴者によって意見が分かれるところだろう。実際、このラストに持っていくために第12話の展開が露骨に図式的なきらいは確かにある。だが自分は、いくつもの要素や関係性を徹底的に重ね合わせ反転させたこの構成美にこそ感銘を覚えた。
ここからスレッタとミオリネそして彼女達含めて何組もの親子がいかにして関係を結び直し物語の終わりへ辿り着くのか、その道のりは途方もなく遠く険しいように思うが、続く2クール目を信じて待ちたい。
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おわりに
……といった感じで、各作品を「主人公」「親子」の観点から語ってみた。
やはりどの作品も「いかに主人公をこの作品・物語の中心人物として際立たせるか」というチャレンジが印象的だし、それを成功させるためには親(保護者)の存在とその関わり方が重要になるんだなあと強く感じた次第。父が主人公をさりげなく新たな日常に送り出した『ぼっち・ざ・ろっく!』、主人公が親的存在に別れを告げて新生した『BLEACH千年血戦篇』、親子関係が今はただ混迷の中にある『機動戦士ガンダム水星の魔女』。
もちろん親キャラをあくまでサブ止まりにしたりその姿を全く描かずに成り立っている作品も数多ある。ただ、やはり親との関係描写(支配・超克)を経て主人公のビルドゥングスロマンを達成するというのは古典として残っているくらい強い方式の一つなんだと思う。特に未成年をメインキャラとする作品においては*8。
『ぼっち・ざ・ろっく!』はアニメ作品としては一旦完結したが、これだけ人気となれば2期もいずれ作られるだろう。原作のその後では、さらに作中時間が進んで結束バンドの面々が本格的にバンドで身を立てるためのフェス応募やレーベル所属、進学等を描いていくことになる。そうした自立に向けた物語が進むほどに、発端となる後藤ひとりと父の関係が重要性を帯びていくだろう。『BLEACH』も今後は改めて敵としての「父」「祖」のユーハバッハを倒す戦いに踏み込んでいく。『水星の魔女』はスレッタとミオリネそれぞれの親との決着、そして父を手にかけるという物語を「終えてしまった」グエルの存在が劇中でどうなるのかが気になるところ。
それぞれの物語がまた区切りを迎えた際には、この記事の続きを書く時もあるかもしれない。
*1:配信作品ではネトフリでの『ジョジョの奇妙な冒険』第6部最終クールもあった
*2:また、本作はひとりの父以外にも虹夏の姉でありライブハウスの店長である星歌や新宿のバンドベーシスト廣井など、他の大人達もひとりを見守り背中を押してくれる。大人達はだいたい皆情けなかったり社会的に真っ当でなかったりするが基本的に未成年の味方であるというのが『ぼざろ』の特長だ。
*3:ちなみにアニメで少し語られ、単行本最新5巻で番外編として収録されたエピソードでは、星歌が母親を亡くした虹夏の親代わりとなって彼女のためにライブハウスを立ち上げたことが明かされている。陰ながら保護者に音楽に関わる後押しを受けていたという点ではひとりと虹夏は相似形であり、だからこそ虹夏が早いうちからひとりのギターヒーローという正体を見抜き自分の夢を明かすに至ったのかもしれない。
*4:他にも、第10話で卯ノ花烈が剣八との死闘の果てに卍解するシーン。ここでもその絵面だけをキメとするのではなく、原作では黒塗りの小さな1コマだけだった卯ノ花の「卍解」と唱える瞬間、その声音の恐ろしさにこそ重きを置くように声優の迫真の発声と真っ黒な画面の合わせ技にしていた。
*5:本作は旧アニメ版からのレギュラーキャスト陣の堂に入った好演が懐かしくも嬉しい中、今回から新登場した二枚屋王悦を演じる上田耀司が負けず劣らず素晴らしい。最初の能天気な振る舞いから一転して、一護に真実を告げて最後に彼を肯定するまで、優れた劇伴のようにその場のテンションを盛り立てる役目をこれ以上なく果たしてくれていた。
*6:ここでオープニング主題歌「祝福」のピアノアレンジが流れているのだが、「祝福」の歌詞がストレートに明るいものなだけに、それをコーティングされているものは何なのか……という裏読みに繋げられるようになっている。
*7:ミオリネのスレッタへの態度の変化も前話から急すぎるようにもとれるが、彼女がスレッタと離れ離れになってからずっと非常時の中にありほぼ恐慌状態だったこと、テロリストでさえも彼女ごと殺すことに躊躇いを見せていたこと等で、この拒絶に至る導線は確かに敷かれているのだ。
*8:つい最近も長年の試行錯誤の果てに父と息子の対話で以て完結を迎えたシリーズがあったが、あれは自分としては……まあいいや
『トップガン マーヴェリック』感想覚書:米海軍追放寸前の伝説パイロット、トップガン教官として若者達を無双スキルで修行させます!?〜親友の息子と和解、元カノとも復縁しちゃうかも〜
自分がトム・クルーズというハリウッドスターを認識したのはいつのことだったか。
彼の出演作を初めて観たのは確か『宇宙戦争』だったが、その時は演じている役者のことには無関心で、ムービーウォッチメン伝いに鑑賞した『オール・ユー・ニード・イズ・キル』がトムをトムとして意識して観た最初の記憶だったと思う。
その時にはトムはもう50代に入っていて、軽薄な中年男が重そうなバトルスーツをつけて何度も死にまくるというトンチキな映画だった。話も話なので初見のトムは決してストレートにカッコ良くはなくて、情けなく弱音を吐きながら必死に戦場を転げ回る。しかしそれでも尚隠せないスターの華……というか「愛嬌」を感じたのをはっきり覚えている。
その後彼の私生活や入信している宗教等の醜聞を知ることにもなるが、スクリーンの中で誰よりも体を張って映画を面白くしようとする姿には否応なく好感を持っていった。
そして今回の『トップガン マーヴェリック』である。
最初はほとんど何も前情報無しで臨み、その後IMAXで2回目を観て、そしてやっと1作目『トップガン』を観て今に至る。その上での感想を以下に。
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〈あらすじ〉
アメリカ海軍のエリートパイロット養成学校トップガンに、伝説のパイロット、マーヴェリックが教官として帰ってきた。空の厳しさと美しさを誰よりも知る彼は、守ることの難しさと戦うことの厳しさを教えるが、訓練生たちはそんな彼の型破りな指導に戸惑い反発する。その中には、かつてマーヴェリックとの訓練飛行中に命を落とした相棒グースの息子ルースターの姿もあった。ルースターはマーヴェリックを恨み、彼と対峙するが……。(映画.comより)
「冒頭の戦闘機の発艦・着艦風景」「バーで絡んだ人物とトップガンで教官として再会する」「ビーチスポーツ」等日々、本作は1作目の大筋や個々の場面をなぞりつつ時に人物の関係を入れ替えて進行する。しかし決定的に異なりグレードアップしているのが、戦闘機で飛行するシーンの数々だ。
1作目でも米海軍の協力はあっただろうが、それでも俳優が実際に戦闘機を駆るわけにもいかないので、飛行する戦闘機を外から捉えた絵面と機内のパイロット達の描写が断絶していたり飛行によってGがかかる様子はカメラ自体の回転でごまかしていたりと、どうしても撮影の限界が垣間見えていた。
それが今回では、役者としてだけではなくプロデューサーとしても権限を得たトム・クルーズによってパイロット役の俳優達に軍の飛行訓練プログラムが課され、「飛行シーンでは実際に俳優が搭乗して演技をする」するという状況が実現してしまった。カメラは音速で過ぎ去る風景を、音響はエンジン音や風鳴りを確かに捉え、そして俳優達は戦闘機の縦横無尽の機動による現実のGを受けて迫真の演技どころではない本物の苦悶の表情と息遣いを残す。これによって1作目とは段違いの臨場感が生まれている。
そうしたスペクタクルだけでも鑑賞料金のお釣りが返ってくるところだが、自分がこの映画に感心したのはそれ以上のストーリー構成のスマートさだ。
本作のクライマックスでは訓練ではない本物の極秘ミッションで目標施設の爆破・敵機との空中戦が描かれる。いかに飛行シーンの迫力が凄まじくても、戦闘のシチュエーションの見せ方が拙ければ何が行われているかも分からずカタルシスを感じることもなくなってしまうだろう。
その危険に対して本作は、どうしているか。序盤で作戦内容を明らかにして中盤をほぼひたすら訓練場面に費やすことで「作戦がどんな地形・ルート・手順で実行されるのか」を執拗に観客に刻み込む。そしてトップガンの訓練生達がシミュレーションでは何度も失敗してしまうことでその作戦がいかに実行困難かも示され、果たして本番で彼らは生還できるのかというサスペンスも高められていく*1。
また、飛行以外の場面では引きの画があまり無く、登場人物の顔のクローズアップががかなり多い。それによってヘルメットとマスクでパイロットの髪や顔の下半分が隠れる機内でも誰が誰だか区別できるようになっている*2。
そうして映画の大半の時間が「本番」に向けた観客にとっての「訓練」に割かれているために、いざクライマックスで目まぐるしい空戦アクションが繰り広げられても極力混乱せずに展開を追うことができるのだ。こうした作りはジャンルや規模は全く違えど山田尚子監督の『リズと青い鳥』を思い出したりした。
莫大な予算と手間をかけてただ一個の映画として観客をフルに楽しみ切らせようという、極限まで無駄を削ぎ落としたまさに最新鋭の戦闘機のような作品だった。
ただ全く瑕疵のない映画というわけでもなく。
『トップガン』1作目の冒頭で印象的なシーンがある。若き日のマーヴェリックは洋上でミグ戦闘機と空中戦を繰り広げる。彼は戦闘の最中敵機のコックピットと数メートルの距離まで接近し、ポラロイドカメラで相手の写真を撮ってみせる。これは彼の天才的な操縦の腕や恐いもの知らずな性格を見せつけるものだが、ある意味彼が敵を人間として捉え、相手が何者なのかを知ろうとした行動だ。そしてクライマックスの戦闘はあくまで味方の救出・防衛が目的であり、こちらから先制攻撃はしないというものだった。
それが今作では、「ならず者国家」の違法核施設を破壊するという名目で交渉も何もすっ飛ばして予告無しの空爆を仕掛けるというクライマックスになっている。マーヴェリックは敵パイロットの姿を知ろうとする素振りも見せず、敵基地に生身で乗り込む際には現地の軍人達は雪煙に紛れて都合よく見つけられない。
前作でも今作でも作品のシンプルなエンタメ性のために敵を明確に描写しないという方針は変わっていない。しかし今作ではそれをより純化し突き詰めた結果、よりプロパガンダ的・自閉的に傾いてしまったのは事実だろう。
もちろん、トム・クルーズはじめ制作陣はそんなことは百も承知でこの映画を「都合の良い夢」に仕上げることに全力を尽くしているのだろう。
実際、この物語はマーヴェリックの夢なのでは?と思わせるポイントが二つある。冒頭の新型戦闘機のテスト飛行で限界速度を超えて空中分解した時、そしてクライマックスでルースターを庇って撃墜された時。
あの瞬間にもうマーヴェリックは死んでしまったのではないか?という疑いがわざと残されている。そこから先の素晴らしい映画的瞬間の数々は彼が……最後の肉体派映画スターのトム・クルーズが、否、映画そのものが、もう今のままではいられなくなる臨終間際に観た夢だったのではないか、と……。
『犬王』感想覚書:語られざるKING OF STAGE
もし これが音楽じゃなくて もしただの騒音だとしても
もし 届くなら届けよう その先の景色見届けよう
もし それが現実じゃなくて もし ただの幻想だとしても
もし 届くなら届けよう その先の景色見届けよう
(RHYMESTER - 「ラストヴァース」より)
以下、感想。
***
自分は今年3月に『平家物語』を視聴した。言わずと知れた古典『平家物語』の古川日出男による現代語訳版を基にした山田尚子監督・サイエンスSARU制作の作品だ。
そして、古川日出男が『平家物語』の翻訳作業の中で生み出したフィクション『平家物語 犬王の巻』をやはりサイエンスSARUが劇場アニメ化したのが本作『犬王』だ。
権力者達の栄枯盛衰に注視して彼らの姿を「語ること」「語られてきたこと」の意味そのものをフィーチャーしたのがアニメ版『平家物語』であるのに対して、『犬王』では権力に追いやられ利用された側が「語り残すこともできなかった」ことこそを語らんとしている。
『犬王』の冒頭が琵琶法師の語りから始まるのはあたかも『平家物語』のラストからシームレスに続いているかのようだ。この2作をセットで観ることで改めて見えてくるものがあるだろう。
さて、改めて『犬王』メインの感想だが、圧巻のロックミュージカルだった。
時は足利時代初期。平家の遺物の呪いにより盲目となった琵琶法師・友魚。猿楽一座の家に異形の姿で生まれた犬王。二人はコンビを組んで型破りな演目を披露し京の都に名を轟かせていく。
友魚と犬王が仕掛ける「ライブ」の描写がこの映画の肝であり最大の売りだ。
友魚は琵琶法師、犬王は能楽師ではあるが彼らの様子は時代考証をふまえた上で盛大に盛って現代のロックバンドのように描かれている。琵琶はエレキサウンドとして鳴り響き歌は荒々しくがなり立てる。犬王は特異な身体を活かして超人的に踊り狂う。そして彼ら自身の演奏・ダンス・歌唱だけでなく、そのステージに毎回大掛かりなギミックが施されているのも大事な見どころだ。舞台の床下から小道具を動かしたり大きな垂れ幕に灯で図像を投影したりと、立体的な演出の数々がそのまま映像の楽しさに繋がっている。
それらを総合した豪華絢爛なライブパフォーマンスが観客達は観ているだけで我慢できなくなり、友魚達の煽りにコールで応えたり、自身も踊り出したりと熱狂していく。
そうした演者と観客が一体となったライブの興奮が渾身の作画で描き出されている。このシーケンスを目撃した衝撃は今年観た映画の中でも随一だった。
……といった感じに大変素晴らしいライブ描写であり、実際自分は大いに楽しんだわけなのだが、一方でその間ずっと煮え切らなさを感じてもいた。
友魚と犬王は京の橋で出会うなり即興で琵琶と能楽のセッションを演じ意気投合する。ここの奔放なアニメーションと湯浅監督が得意とする気の良い若者同士の交歓描写は本当に良く、「なるほどこれから二人がベストバディとして京の芸能シーンを駆け上がっていくわけだな」と観る者は期待するのだが、それからの本格的なライブになると二人が一つのフレームに収まってライブをするカットがほとんないのだ。というか、明らかに意図的に排除されている。数々のライブで琵琶を演奏し唄う友魚と踊る犬王は別々に映され、クライマックスの舞台でも犬王が単独でステージを飛び回る中友魚が一ヶ所に留まって動かない。
勿論巧みな編集でライブはしっかり盛り上がりを以て描かれるし、ライブではない平場では彼らは同フレーム内でちゃんと友情を育んでいく。それなのにライブ中のこの頑なな分断はどういうことなんだろうと引っかかってしまい、ライブ中も頭の片隅が冷めている自分がいた。
しかし本作の結末を見届けた今遡って考えると、そのアンチカタルシスにだいぶ納得がいった。
犬王の身体の呪いは次々と解かれ友魚も充実し、彼らは時の将軍足利義満の御前でライブをするまでに上り詰める。しかし彼らの民衆への求心力が幕府の支配を揺るがすことを危惧した義満により、友魚の一座は無理矢理解散させられ、犬王は演目の肝である平家物語の異伝を語ることを禁じられてしまう。その決定にしたがった犬王と反抗した友魚はそのまま死に別れることになる。
二人のライブパフォーマンスやその核となっていた亡霊達の声なき声は、根こそぎ権力や歴史といった大いなるものに奪い去られてしまう。
そして数百年が過ぎた現代の夜に場面が映り、共に霊魂となった友魚と犬王が再会する。二人は初めて出会った時の姿に戻り、もう一度セッションを果たしたところで映画は終わる。
結局、彼らがただ純粋に芸能の楽しみだけで、そして同一フレーム内で共に歌い踊ったのは、この最初と最後だけではなかったか。京でのライブの日々は「亡霊達の声を代弁するため」「犬王の呪いを解くため」「為政者に自分達を認めさせるため」といった目的・大義が常に存在していた。そしてそれは最後には奪われるものであり、だからこそそこに二人の本当に大切な瞬間を置けなかったのではないか。
マスに訴えかけるためのエンタメ作品としての火力を減じてでも物語テーマの核心を保守したのを、作劇の倫理と見るか粗と見るかは難しいところだ。実際自分はこの構成により本作を100%楽しんだとは言えないが、好ましさはそれ以上にある。
語ること、歌い踊り奏でること、何よりそれらを誰かと共有すること、何を置いてもそれを一番に大事にするよと言う作品を、嫌いになれるはずもないのだ。
『鋼の錬金術師 復讐者スカー』感想覚書:為し得た禁忌の実写錬成
まず、自分は『鋼の錬金術師』が大好きだ。
通称「ハガレン」。荒川弘の原作漫画に中高生だった2000年代に直撃して見事にハマった。その贔屓目を除いても本作は少年漫画の金字塔だと思っている。そして最初のアニメ版は原作に大胆な改変を施して独自の傑作になったし*1、後に再度アニメ化された際は最後まで原作に沿った十全な出来だった。そのまた後の劇場版はジブリテイストを取り入れた特別編といった趣でこちらも好きだ。
そんな風に自分はハガレンの原作とメディアミックスにはどれも満足していたのだけれど、2017年公開の実写映画版についてはさすがに良い感想を抱けなかった。
曽利文彦監督が得意とするCG合成やるろ剣実写をふまえたような適度な汚し・厚みの入った衣装の出来も全然悪くはない。しかし「近代西洋風ファンタジー世界を舞台にした漫画を日本人キャストで実写化する」という枠組みによりどうしても「日本人がコスプレで演じている虚構」という事実が意識から拭えず、素直に映像世界に没入することができなかったのだ。さらにストーリーや役者同士の演技のつながりも散漫な印象を受け、全体的には駄作とまではいかなくとも決して良作とは言えない……というものだった。自分にとっては。
そのため2021年にハガレン20周年プロジェクトの一つとして実写映画版の続編2部作公開が発表された時は、正直「また(まだ)やるの……?」と思ってしまった。すわ原作やアニメ版の新作かと期待してしまっていただけ余計に落胆したというのもある。
続2部作で新規出演する俳優陣を確認して「あーあのキャラをあの人がやるんだー」程度にちょっと心動かされつつも出来に関してはあまり楽しみにしていなかったのが事実だ。
しかしいざ鑑賞してみると、……いや悪くないんじゃないか? むしろはっきり実写1作目より良くなっている、何ならある点においては原作超えすらしているのでは?と思ってしまった。
以下具体的な感想。
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『ドクター・ストレンジ マルチバース・オブ・マッドネス』感想覚書:選ばれる世界、選べない幸せ
愛する者と平和に暮らしている別世界があるが自分の世界だけがそうでないのと、どの世界でも愛する者と結ばれることがないのと、より辛いのはどちらだろうか。
両方ともにマルをつけてちょっぴり大人になるのはなかなか難しいのだ。
以下、本作とスパイダーマンNWHのネタバレをふくむ感想。
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〈あらすじ〉
世界観や人物像が少しずつ異なって存在する多元宇宙「マルチバース」。
マルチバースを渡り歩く能力を持つ少女アメリカ・チャベスが何者かに追われてドクター・ストレンジの世界にやって来る。ストレンジは隠居していた魔女スカーレット・ウィッチに協力を求めるが、彼女こそが禁断の書に憑かれてチャベスを狙う張本人だった。
魔術師VS魔女の狂乱の戦いが幕を開ける……。
まず、自分はMCUにフェイズ4からマルチバース概念が導入されることにどちらかといえば否定的だった。ただでさえ広大で多種多様なキャラがひしめくMCU世界にさらに無限の「差分」があるとなれば、さすがに作品への理解がキャパオーバーしてしまう。そして物語やキャラクターのかけがえのなさが「無数に存在する可能性の一つ」に矮小化されるような気していたからだ。
そしていざマルチバース導入後の『スパイダーマン ノーウェイホーム』と本作『ドクター・ストレンジ マルチバース・オブ・マッドネス』を鑑賞してみて、むしろMCUがこの設定に想像以上に慎重なハンドリングで臨んでいることを察した。
『ノーウェイホーム』(以下NWH)ではスパイダーマンのトラブルに端を発し別時空から彼に敵対するヴィランが、そして別にスパイダーマン達が姿を表す。作中でキャラ達の別時空でのIFが示唆されるものの、最終的には主人公自身の存在・人生がクローズアップされ、「今・ここ」で生きていくことが強調される結末だった。
本作『マルチバース・オブ・マッドネス』(以下MoM)もまたNWHに似て、そしてマルチバースについてのテーマをさらに深めたような作りになっている。
作中で印象的なシーンがある。
魔術師達の本拠地カマー・タージを襲撃したスカーレット・ウィッチことワンダがストレンジの魔術によって鏡の空間に閉じ込められる。そこでは彼女の姿が様々なアングルから映し出され、鏡に亀裂が入るとワンダもまた歪みズレたように見せられる。それでも彼女が強引に空間を突破すると、その実体も容赦なく切り刻まれさながら貞子のような風体で現実空間に出現することになる。
ここに本作のマルチバース解釈があると思うのだ。別時空の自分はあくまで現実の自身を映した鏡像であり、その境界を無理矢理に越えようとすれば自らを化け物のようにしてしまうと。
そうした厳格な程の作品内モラルを設定して描き出そうとしたのは何か……?
MoMの監督を務めたのはサム・ライミだ。
1981年『死霊のはらわた』で監督デビューしカルト的なホラー映画を得意しつつ、言わずとしれた『スパイダーマン』シリーズの監督でもある。2013年『オズ はじまりの戦い』以降はプロデュース・製作業が中心になっていたが、本作でまさかの監督復帰。
彼のホラー映画監督とヒーロー映画監督どちらの側面が本作で見られるのか、久方ぶりの監督業でもその手腕は健在なのか、自分は期待半分不安半分といったところだったが、蓋を開けてみれ両方ともを全力で観られるという嬉しい驚きが待っていた。
映画序盤はまずヒーロー映画監督としてのサム・ライミ。
ニューヨークで元カノの結婚式に出席(何してんだコイツ)しているとチャベスと彼女を追う怪物が出現。颯爽とコスチュームに着替え、ビル街を飛び回って戦う様子は否が応でも『スパイダーマン』のそれを想起する*1。ある意味NWH以上にMCU×ライミスパイダーマンのクロスオーバー感があった。
その後チャベスとの状況確認の会話→ワンダに面会・彼女の闇堕ち発覚→カマー・タージでの迎撃準備の流れが非常にテキパキとしていて、体感5分程だった。この描写の淀みなさに惚れ惚れとしてしまった。
カマー・タージの防衛戦は、上空のワンダと砦に集う魔術師軍団の高低差がはっきりした戦闘模様がとても見易くもダイナミックで、ニューヨークでの戦闘と同じくライミ監督は立体的なバトル演出がやはり巧みだと実感した。
そして中盤からはホラー映画のサム・ライミ。
ストレンジとチャベスはワンダから逃れて別のマルチバースに転移するが、その先でヒーロー集団
「イルミナティ」に捕まってしまう。そこへ禁書ダークホールドの力で別の自分に憑依したワンダが迫ってくる。
ストレンジ達がワンダ来襲に逃げ惑う場面は完全にホラー映画の演出となっている。しかもその表現技法は洗練された現代最新鋭のものでなく、それこそライミ監督の新人時代に立ち返るような「血が噴き四肢が千切れ」「暗闇の中ひたすら脅威が追ってくる」非常にストレートで古式ゆかしいものだ。しかしそれらは決して映画のスリルを阻害せず、純粋なお化け屋敷的なエンタメ感を提供してくれる。そして立ち塞がる者を容赦なく殺しまくり血まみれで迫るワンダはヴィランというよりまさにスプラッターものの殺人鬼やモンスターの様相だ*2。
こうして「ヒーロー映画の中で別のヒーロー映画をやる」序盤と「ヒーロー映画の中でホラー映画をやる」中盤を経て、終盤。
チャベスを元バースのワンダに奪われてしまったストレンジは、別の自分から入手したダークホールドでワンダと同じように別の自分への憑依を試みる。その取り憑く先の自分とは、最初にワンダとともにやって来た「死体の自分」だ。埋葬した後ほとんど腐敗し肉や骨が剥き出しになった死体のストレンジが、土中から手を突き出し起き上がる、
視覚上は死者が蘇るおぞましいホラーの一場面であり、しかし展開的には心躍るヒーローの復活。それまで分かたれていた「ヒーロー映画」と「ホラー映画」が完全に融合したこの一瞬に、自分は訳も分からず涙がこぼれそうになってしまった。作中では異なる時空がぶつかり対消滅してしまう事態が「インカージョン」と称されたが、ここではむしろ別ジャンル同士が合体したまだ名付けられていない新しい何かの生誕を目撃した気分になったのだ。
そして死体ストレンジは自身に寄ってきた悪霊達を支配し翼のようにしてワンダの元へ飛来し、彼女と対峙する。もはやどちらがヒーローか判別しかねる絵面だったが、ここにしっかりと意味があったと思う。
MoMでのストレンジとワンダは対になったキャラクターだ。
ワンダは別バースではヴィジョンとの間に授かった息子達がおり幸せに暮らしている。しかし本バースの自分にだけは彼らがいない。毎晩別の自分の様子を夢で見せつけられ続けた結果彼女は闇の力に身を堕とし、マルチバースを支配し幸せを強引に手に入れようとしてしまう。
ストレンジはで全てのバースで恋人のクリスティーンと破局する定めにある。それを知ったまた別のストレンジは自棄になり他の自分を殺して回っていた。そして元々彼の人間性は最大多数の幸福・利益を優先して自分が全てを背負いこみ時に他者に犠牲を強いることも躊躇わない。
核が利他的/利己的という違いがありつつ、どちらも自身の幸せが手に入らず周りを犠牲にし得るという点では彼らは似通っている。では何故(実際に作中で彼女の科白として問いかけられるように)ストレンジはヒーローであり続けワンダはヴィランになってしまうのか?
それはもう身も蓋もない話だが、2人がそれぞれ自らの意思で選択したからだ。マルチバース概念導入の結果、MCU世界は自分のありとあらゆる可能性が分岐した多元宇宙として実在することになり、生まれながらの資質の有る/無しのが人生をずっと確定させることはなくなった。自身が何を求め選ぶかで在り方はどのようにも変化し得る。それはつまりヴィランが手段さえあればヴィランでなくなることができるし(NWH)、ヒーローが何かの拍子にヒーローでなくなる(MoM)こともあるということだ。その選択の場面は人生が続く限りいつ何時訪れて不思議ではない。それがマルチバースだから。
それでも、世界がどう変わろうと動かない自分の共通性というものこそをキャラクター性、自己同一性と呼ぶのかもしれない*3。ワンダはそれに耐えられずヴィランになり、元々オリジンやサノス打倒の際に時空を何百万回もループ・試行してきたストレンジは自分の宿命を受け入れてヒーローとして存続した。
最早スティーブ・ロジャースのようなナチュラルボーンヒーローはどこにもおらず、生来の容姿や能力ではなく際限ない選択の連続によってヒーローか否かが分かたれる。それがクライマックスの元アベンジャーズのワンダと死体ストレンジの異形の対決の有り様に表れているのだ。
そしてそこで、「この世界」に来て「このストレンジ」と出会い「この力」を持っていて良かったと自分の「選択」を信じ肯定したアメリカ・チャベスがヒーローとして覚醒する。
『スパイダーマン』シリーズでいやというほど知っていたが、サム・ライミ監督はヒーローが感情を爆発させる瞬間の演出が本当に上手い。否、「上手い」というかただ自然と「分かっている」。チャベスの決意の表情と握り込んだ拳にクローズアップし、彼女のパンチが世界に穴を開ける……。ごくごくシンプルな場面のアングルやタイミングがこれ以上なくしっくり来て胸を熱くさせる。
『ドクター・ストレンジ マルチバース・オブ・マッドネス』という映画の決着であり、新ヒーローアメリカ・チャベスのオリジンであり。監督サム・ライミの堂々の凱旋だった。
作中では何度も「あなたは幸せ?」という問いが何度も出てくる。最初はクリスティーンからストレンジへ、最後はストレンジから同門のウォンへ。答えは様々だ。
幸せを求める中で、つい別時空の有り得たかもしれない自分を夢想することもあるだろう。しかしその瞬間、今ここの自分と別に自分はオルタナティヴなものになり、幸せの価値自体も替えの効くものになってしまう。
他の誰でもない自分の幸福を見つけるための「選択」は、いつでも目の前に隠れている。