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『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』感想覚書:血と煙草と目玉

 

はじめに

 

2022年末の自分「いやー『THE FIRST SLUM DUNK』すごかったな……。まさか宮城リョータに原作読者も知らない過去が生えてきてここまで心狂わされるとはね」

2024年の自分「お前来年も東映アニメ作品で同じようなことになるぞ」

「え!? 何の作品の誰で!?」

ゲゲゲの鬼太郎』の目玉おやじ

目玉おやじ?????

 

 ***

 

 2023年秋から公開された劇場アニメ作品『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』、通称「ゲ謎」。

 原作者水木しげる生誕100周年記念作品であり、『ゲゲゲの鬼太郎』TVアニメシリーズ第6期の前日譚となっている。

 そこで描かれるのは、鬼太郎の父・目玉おやじの過去。昭和31年(1956年)*1、彼がまだ目玉だけではない人間の姿だった頃に血液銀行の社員「水木」青年とともに関わった、山奥の哭倉村で起きた連続怪死事件。

 目玉おやじの知られざる過去と人間「水木」とのバディものという予想外のコンセプトと事件を通じて昭和日本の暗部を抉り出すテーマ性がバッチリはまり、2023年4月末時点で27億円超という予想以上のヒットを打ち出した。公開当初からSNSやPixivで連日連夜作品の幻覚ファンアートが流れてきていた。

 

 かくいう自分も本作に大いに魅せられ、久しぶりに鬼太郎熱・妖怪熱が再燃した日々を送っている。

 アマゾンプライムビデオでの見放題配信も始まった今、改めてこの作品を重要な構成要素である「血」「煙草」「目玉」の三つの観点からレビューしていこうと思う。

 また、呼称の混乱を防ぐために文章中では過去の目玉おやじのことは作中でも呼ばれている「ゲゲ郞」、血液銀行社員の水木のことはそのまま「水木」、原作者はフルネームで「水木しげる」で表すことにする。

 

 

1.「血」の章

 ゲゲ郞や水木が血にまみれているティザー映像や作品内でも飛び交いまくる血飛沫等、本作はとにかく「血」のイメージが印象的だ。

 そして物語上のファクターとしても重要な役割を果たしている。

 

 水木が勤める「血液銀行」は、1960年代頃まで現実に存在した、輸血等に使われる血液を民間から買い取り医療機関に販売していた民間企業だ。その売り手の多くは血を売ってでもお金を必要とする困窮した人々だった。作中でも社屋の中(あるいは病院?)で採血を待って列を作る元気のない者達の姿がある。しかし彼らが報酬のために限度を超えた採血による貧血や提供した血液の品質低下等の問題も発生していた*2

 そして水木が会社の密命を受けて探していた、龍賀製薬が秘密裏に製造・販売し戦中戦後の政財界での地位を築いた幻の血液製剤「M」の正体は、龍賀一族の当主・龍賀時貞が率いる哭倉村が捕らえた幽霊族の血液を人間に投与し屍人化させた身体から精製したものだった*3

 東京の血液銀行も山奥の哭倉村も「弱者や少数者から血を吸い上げて利益を生む」構造で相似したものとして明確に描写されている。本作への評価で「地方の因習を批判的に描いている」というものがあるが、それは明らかに片手落ちだ。

 さらにそうした搾取構造は、かつて水木が徴兵時に体験した状況にも通じている。軍部の体面のために一兵卒達は無意味な特攻を強いられ、上官は保身によりその犠牲には加わらず戦後も私腹を肥やしていた。そのトラウマから企業社会で精力的に働いてきた水木だが、本作の事件に関わることにより都会にも地方にも蔓延る血を奪い奪われるシステムをまざまざと見せつけられることになる。それははからずも沙代が言った「東京もこの村も同じ」という科白がシンプルに表現している。

 

 「血」で表現されるテーマはこれだけではない。それは「血縁」や「家族」だ。

 龍賀一族は幽霊族から血液製剤を作る一方で、時貞が一族の女性と近親相姦して強い霊力を持った子孫を生み出すというしきたりを強いていた。女性達はいずれも戸籍上の夫との関係は冷たいもので*4、当代で時貞の「お気に入り」になっていた沙代は溜め込んだ鬱屈から幽霊族の怨念が形になった妖怪「狂骨」に取り憑かれ惨劇を起こすに至ってしまう。さらに村長の長田夫婦の息子である時弥は時貞によって体を乗っ取られるために産まされた存在だったことが明らかにされる。これは哭倉村・龍賀一族という特殊な舞台での歪んだ家族関係よるもののようでいて、時貞の所業は家父長制での家長のエゴを極限化した表現だとも言える。それは先に示した血液銀行血液製剤M・戦争の搾取構造とやはり類似したものだ。

 

 しかし本作での「血」はそうした陰惨なものだけではない。改めて、この作品で描かれているのは鬼太郎の誕生にまつわる物語だ・そこにあるのは紛れもなく目玉おやじとその妻から子への、さらに数多の祖先達からの「血のつながり」なのだ。

 この世に残った最後の幽霊族としてゲゲ郎と妻は出会い、夫婦となる。妻が消息不明になる寸前に実はゲゲ郎の子=鬼太郎がその身に宿っていたが、彼女が囚われたのは幽霊族をMの材料として死体同然になるまで貪る哭倉村だった。彼女は子どもを魔の手から守るために妊娠を隠し出産もせずずっと身籠り続けていた。そしてそのことが時貞にバレてしまいいよいよ子どもに危機が迫ると、亡骸になっていた幽霊族の同朋・祖先達が子どもの泣き声に応え、その髪の毛を狂骨と合わせて皆ご存じの「霊毛ちゃんちゃんこ」に変化させ、ゲゲ郎達の身を守らせる。そしてゲゲ郎は溢れる呪いを引き受け、妻と子どもを村の外へと逃がす。

 人間側の歪で自己中心的な血縁・家族関係とは対照的に、子どものために肉親や祖先が身を擲ってでも守り未来に繋げていこうとするという、あまりにも健全で理想的な「血のつながり」の在り様だ。

 そして、人間と幽霊族両方の「血」を目の当たりにした水木がゲゲ郎達からその子どもの鬼太郎を託され、「血のつながらない親」として彼を育てていくことになるという帰結。今の時代にも通じる新境地のようでいて、この部分は歴として元の『墓場鬼太郎』から存在しており、原点回帰的な結末でもある。

 

 また、水木と鬼太郎の関係はメタ的には勿論「水木しげる」という原作者と『ゲゲゲの鬼太郎』という作品のそれに重ねられている。

 ここで重要なのは『ゲゲゲの鬼太郎』の制作経緯だ。

 『ゲゲゲの鬼太郎』が貸本漫画『墓場鬼太郎』が元になっていることはある程度鬼太郎に知見のある人には周知のことだ。では『墓場鬼太郎』のその始まりは?

 元々この国には『子育て幽霊』『飴買い幽霊』等の「幽霊や死者が赤ん坊を生み育てる」という物語類型がある。1930年代前半頃にそれをモチーフにした紙芝居作品『ハカバキタロー』が伊藤正美(原作)・辰巳恵洋(作画)によって制作された。その後同じく紙芝居作家として活動していた水木しげるが作者達の承諾を得た上で新たな紙芝居『墓場の鬼太郎』を描く。それが貸本版『墓場鬼太郎』→『鬼太郎夜話』→『ゲゲゲの鬼太郎』に繋がっていった。

 つまり『ゲゲゲの謎』で水木が鬼太郎の「育ての親」となったように、実際に水木しげるもまた『鬼太郎』の「産みの親」ではなく「育ての親」だったのだ。

 しかし『鬼太郎』を日本有数の作品・コンテンツへ導いたのは間違いなく水木しげるであり、彼が『鬼太郎』の「親」であることに異を唱える者はいないだろう。

 

 そして漫画からのメディアミックスにあたって水木しげるから『鬼太郎』を託された歴代のアニメスタッフ達もまた「鬼太郎の育ての親」だったとは言えないだろうか。

 『鬼太郎』は1968年に放映開始したTVアニメ第1期から始まり、およそ10年ごとに

TVアニメシリーズが新しく制作されてきた。それは第2期以外は前作からの続編ではなく毎度キャラクターや設定が一部仕切り直されたためにそれぞれ微妙に異なった作風を持つことになり*5、主人公の鬼太郎像も水木しげる由来の「飄々としつつ不気味な存在」と大人気エンタメコンテンツの主役としての「心優しい人間の味方」の間を絶えず揺れ動いてきた。

 それはさながら鬼太郎の育ての親となった水木が『墓場鬼太郎』で鬼太郎に恐れと親愛を抱え戸惑いながら接していたように、シリーズごとのアニメスタッフ達もまた毎度『鬼太郎』という変幻自在の原作をどう扱うか試行錯誤を続けてきたのではないか。だからこそその描写に多様な振り幅が生まれ、アニメシリーズが何十年も再誕を繰り返すことができたのではないだろうか。

 その最新形として2018年からのTVアニメ第6期とその前日譚・劇場作品である本作が今ここにあるのだ。

 

 

2.「煙草」の章

 作中の年代設定は昭和31年(1956年)。日本の成人男性の喫煙率が7割以上、男女を平均しても4割以上だった時代だ(ちなみに2022年時点の国民生活基礎調査では男性25.4%、女性7.7%)。

 それを反映してか、本作の登場人物(特に男性)には多くの喫煙描写がみられる。

 冒頭の血液銀行社屋や夜汽車の中でも当たり前のように人々が煙草を吸い煙が室内に立ち込めている。

 

 水木もまた愛煙家として描かれ、作品中盤まではほとんどの場面で煙草を手にしている。少女が咳き込む汽車内でも煙草に火を点けようとし、哭倉村に着いてからも平然と吸殻をポイ捨てしている*6

 これは時代のリアリティにしたがった描写であると同時に、彼の内面の表れになっていたように思う。そもそも血液銀行に勤め伝説の滋養強壮剤を追い求める=健康・長寿に関わる職務についている水木が健康に有害で寿命を縮める煙草を愛用しているという矛盾がある。それは戦争で心身に重篤な傷を負い今も自分が死んでいる悪夢に苛まれる彼が無意識的に自分の生命を大事にできずにいること、他人への配慮も欠落してしまっていることを描いているのではないだろうか。

 そんな水木はゲゲ郞と出会った時も彼に心を許さず「(煙草を)一本くれんか」と請われても「やだね」と意地悪く拒絶する。しかしゲゲ郞と行動をともにするうちに自分の苦悩や孤独を内省していき相手への感情移入も深まってくると、墓場での酒宴の中で初めて彼に煙草を分け与える。

 水木が時代に呑まれ自傷的になっていることを示すアイテムだった煙草が、彼のポジティヴな変化を表現するものに置き換わった瞬間だ。ちなみにここを最後に、水木が喫煙する場面は出てこなくなる。彼の変化とともに煙草の前者の役割も終わったということだろう。本作での物語の後、赤子の鬼太郎を育てることになった水木は時代に反してでも禁煙したりしたのだろうか……果たして。

 

 そして水木以外の登場人物の喫煙描写も見るべきところは多い。

 例えば龍賀一族に婿入りし製薬事業を発展させた龍賀克典。彼は富裕層らしく紙巻煙草ではなく葉巻を愛用している。葉巻を片手にしながら水木と沙代の仲をからかったり彼女を水木に「くれてやる」と嘯いたり、水木に出世を報酬としてMの在処を探らせる交渉をする際に葉巻を受け取ることをYESとするように見立てる。そして葉巻を吸い慣れておらずむせる水木を嘲笑し、水木は屈辱を感じるものの葉巻を捨てられない。このように、克典の煙草に関わる描写は表向きの龍賀製薬のトップである彼が水木にとっての上位者であることを端的に示す。被搾取の側から抜け出そうとあがく水木が未だその仕組みに囚われていることを否応なく突き付けてくるのだ。

 龍賀時貞の長女であり克典の妻である乙米。彼女は公の場では喫煙の様子は無いが、一族内で剣呑な話題に及ぶ時や捕らえたゲゲ郞に残酷な裁定を下す時等、その高圧的で非情な気性を露にする場面では煙草を高飛車な感じで携えており、彼女の悪辣さを際立たせる小道具として機能している。

 こうしてみると、本作での「煙草」とは水木が自身の内面と向き合うと同時に決別するものであり、彼に支配・屈服を迫ってくる者とともにあるガジェットだ。とすれば最終的な倒すべき敵として現れる龍賀時貞こそが偉そうに煙草をふかしているべきだったのでは……と思うところはある*7

 

 また、本作で登場する「煙」は煙草のものだけではない。

 ファーストカットで山中に立ち込める霞と雨煙、東京に場面が変わった時に風景の奥に映る工場の排気ガス、哭倉村へ向かう汽車から吐き出される排煙、水木が思い出す戦場での硝煙、ゲゲ郞が入る温泉の湯煙、禁域の島に漂う毒々しい妖気。そして煙の元となる「火」として、狂骨が人を襲う際の青白い炎も印象的だった。

 本作には煙草を筆頭に多種多様な煙が立ち込めている。その煙の向こうに存在するものを見通せるかどうか、これについて次の章で。

 

 

3.「目玉」の章

「儂には見えるのじゃ。見えないものが見えるのじゃ」

 

 本作でフィーチャーされているゲゲ郞こと「目玉」おやじが何度も言葉にしているようにこの物語では終始「見えているもの・見えないもの」が取り沙汰され、そしてその機能を持つ「目」そのものも重要なファクターになっている。

 

 主人公の水木は南方の戦場や帰還した内地で弱者が強い者・狡い者に支配される有り様を「見た」ことから自分の利益や出世に躍起になり他者を信じられないようになってしまった。

 それ故に序盤の水木は「大事なものが見えない」人物として描写される。

 哭倉村に足を踏み入れた際には、村内からの視線や突然現れる長田に気づけない。代わりに、龍賀一族の者として恩を売ることになる沙代の鼻緒が切れて困っている様子には遠目からでも気づいたり龍賀の屋敷内で一族の主要人物を瞬時に把握したりと、自分の得になる事物については目敏い。

 

「妖怪はどこにでもおるぞ。お主が生まれた時からお主の周りにも無数におった。ただお主が見ようとせんかっただけじゃ」

 

 そんな彼はゲゲ郞に会い関わるうちに、妖怪の姿が見えるようになる。それは単に彼が霊視能力を手に入れたという表面的事実だけではなく、それまで目を逸らしていたモノ・コトに向き合うようになったということだ。その比喩としての「妖怪」。それは自分の傷ついた内面であったり、自分のために無下にしてきた・しようとしていた他者の存在でもある。

 

「あなたならって信じてたのに。私のことを見てくれるって……」

 

 水木はゲゲ郞とともに哭倉村の秘密に迫っていき、その果てに沙代が龍賀一族のおぞましいしきたりの犠牲者だったこと・一方で彼女が狂骨を使役して三度の殺人を犯していた真犯人だったことの両方を直視することになる。だからこそ、沙代の縋る目線に応えられず彼は目を逸らしてしまう。そしてそれが沙代の精神にとどめを与え、さらなる大量殺戮の引き金となってしまう。

 水木と沙代の「見えないものが見えるようになったからこそ見ていられなくなる」ドラマの決着として、惨憺たるものだが圧巻の迫力だった*8

 

 水木に「見えないもの」のテーマを説いたゲゲ郞だが、彼がそれを完璧に体現したキャラクターかというと少し違う。

 確かに彼は幽霊族として妖怪が見えていて人間(水木)の内面を見透かすことできる。しかし過去回想においてゲゲ郞と妻の前で子どもが転んだ時、妻はすぐに子どもに寄り添って労るが彼はそれを見ているだけだった。終盤の地下工場で死人達が暴走して村人達を襲い出す場面でも、起きる事態を悟るものの(拘束されているとはいえ)それを止めようとはしなかった。もちろん時弥に優しく接したり沙代の気持ちを慮る等のシーンもあるが、それ以上に彼らへ積極的に働きかけることはない。つまり彼は「見ているだけ」の在り方だったと言える。それが最終盤になって、「我が子と友の生きる未来を見てみたい」との理由で荒れ狂う無数の狂骨を引き受けて被害が村の外まで及ぶのを防いでみせた。

 水木だけでなくゲゲ郞もまた本編の中で見る世界を大きく広げたのだ。

 

 そして彼らの宿敵となる龍賀時貞の「目」も印象的だ。

 冒頭の老いた彼が亡くなるシーンでは白目を剥いており、その後の遺影では目の部分は黒い影で描かれている。

 終盤で時弥の体を乗っ取った時貞が現れた場面で初めて彼の目がはっきり表されるのだが、その両目は爛々として狂気じみたものになっている。彼は自らの資質と権威を誇り、今の時代の人々の頼りなさを批判し自分による教導の必要性を語る。しかしその実態は弱者・少数者から搾取し放蕩の限りを尽くし子孫という未来も自分のものとして食い潰そうとする俗物でしかない。水木が当初のまま突き進んだ場合の成れの果てとも言える。時貞は国の未来を見据えた言葉と裏腹に何も見えなくなっていたということだろう。

 最期、彼は暴走した狂骨に呑み込まれ、目どころか口耳鼻や四肢もない球体となって永遠に苦しむことになる。

 

「目で見るものだけ見ようとするから見えんのじゃ。片方隠すくらいでちょうどいい」


 その科白の通り、本作では「片目」も何度も反復される要素だ。

 水木からして戦場で左目を負傷してその傷痕が残っており、沙代の殺人の犠牲者はいずれも刺し貫かれたり鳥に啄まれたりして左目を失っている。

 ゲゲ郞の側も、彼の妻は長い間哭倉村に囚われて血を抜かれ続けた中で右目が潰れてしまっており、後に出産される鬼太郎は生まれつき左目を失っている。そしてゲゲ郞は無数の狂骨の呪いを背負った負荷により村から出た後で身体は限界を迎えてしまうが、左目だけに命を残して皆がよく知る「目玉おやじ」の姿になる。

 片目の喪失、あるいは片目だけの存在になること。水木や龍賀の者はそれまで目を逸らしていたことへの因果応報のようであり、鬼太郎一家の方は人間達の残酷さ・愚かさに巻き込まれた呪いの印のようでもある。

 しかし、鬼太郎の左目が無いことが元の『墓場鬼太郎』では水木が鬼太郎を恐れて振り払った拍子にその目を潰してしまったという経緯から、本作では元々左目が失われており水木は幽かな記憶から鬼太郎を抱き締めて劇終する展開に変わっている。それは「片目」にまつわるネガティヴな符号が陽的なものに変じたように自分には感じられた。

 

 鬼太郎は残った右目で、目玉おやじは自身の左目そのものとして人間と妖怪二つの世界を見据え続け、昭和31年後から70年後の現代で、その無念から最後の狂骨となっていた時弥に「忘れない。君の想いは僕が受け継いでいくよ」と言葉をかける。

 妖怪をふくめた「見えないもの」に目を向け、時に戦い時に助け、それらを忘れないでいること。

 目が特徴的なキャラデザインの鬼太郎と目玉おやじへの今になっての意味付け・再定義としてこれ以上のものはないだろう。

 

 そして、「見ること」「見えるもの」のテーマは観客/視聴者である自分達も決して無関係ではない。

 本作はTVアニメ第6期から続く新作でありながら、はっきり描かれる血飛沫や人体損壊等、TV本編よりもグロテスクな描写が増えている。それが可能になっているのは本作が「PG12指定」作品だからだ。「12歳未満の鑑賞には成人保護者の助言や指導が適当とされる」と定義されている。つまり、12歳未満であっても保護者同伴であれば本作を鑑賞できるのだ。

 本来子ども向け作品である鬼太郎シリーズでそれをやることの批判もあるだろうが、さらに重要なのはグロ描写等の「見えるもの」より近親相姦や少数者差別・搾取等の直接は「見えないもの」の表現だ。近親相姦はあくまで言葉で仄めかされるのみで映像にはなっていないし、幽霊族の血を投与された死人達の姿や本当に幽霊のような見た目になってしまったゲゲ郞の妻の姿もある程度漫画的なデフォルメが効いたビジュアルになっている。しかしそれでも設定のおぞましさを鑑賞者はイメージできるだろうし、元の人間から決定的に姿形が変わってしまうショックは描き方にブレーキがあっても減じない。

 そうした暗部がこの作品の中だけでなく現実の人間社会にも昔から今まで歴然と存在していること、自分にもいつ牙を剥いてくるか分からないということ。それを子どもの鑑賞者にこそしっかり伝えたいし保護者ぐるみで話題にしてほしい、そうした意義によるPG12指定だったと自分は思っている。

 

 最後に、水木やゲゲ郞、鬼太郎でさえも「見えなかった」ものについて。

 作品序盤の紫煙立ち込める汽車内では日本人形を持った少女が辛そうに咳をしており、母親と思われる女性が心配げに肩を抱いている。時代背景からして大気汚染による喘息症状等だったのかもしれない。

 しかし周りの乗客のほとんどは彼女を気にせず煙草を吸い続けており、通路を挟んで隣の席にいる乗客のみが目を向けているが、それは後に哭倉村で登場する長田の部下=裏鬼道の中の二人と同じ顔だ。そして場面を大きく飛ばして村の地下にある血液製剤Mの精製工場ではゴミ捨て場に日本人形が打ち捨てられており、処置室のベッドに並ぶ死人化した人間達の中に咳をする者とそれを見る者がいるカットがある。つまり汽車内にいた少女と母親が哭倉村の人間に捉えられ、M精製の犠牲者になっていたのだ。そして終盤で激昂した沙代によって死人達は全て怨霊と化し村人を襲い出す。その後、少女と母親はその怨みによって狂骨となっていたかもしれないが、現代の哭倉村では時弥が最後の狂骨として残っていたため、その場合もそれまでに鬼太郎が退治していただろう。

 咳をしていた少女は哭倉村による子どもの犠牲者という点では時弥と同じような立ち位置の人物と言えるが、水木は汽車で彼女の咳を耳にしていても振り向いてその姿をみとめることはなく、ゲゲ郞は親子と同じ処置室内に居合わせていたが他の死人達の中で彼女達を個人とは認識できなかった。鬼太郎も哭倉村で何十年もかけて狂骨を葬る中で狂骨と化した親子と相対していたかもしれないが、元がどんな人間だったかは知る由もなかっただろう。

 「見えないものを見る」ことを掲げる彼らにもどうしたって見えないものはあったのだ。

 ではあの少女と母親を「見えて」いて「忘れない」でいられるのは誰かといえば、それはこの作品を「見る側」である自分達に他ならない。だからこそ、鑑賞者にのみ汽車と処置室の連続性が分かる構成になっている。

 そこにあるはずのものを見えないものとしていないか、見たものを忘れないでいられるか。ゲゲ郎からの問いかけは水木だけでなく自分達にも投げかけられているのだ。

 

 

おわりに

 「血」「煙草」「目玉」から本作を振り返って分かったのは、各要素は作品全体ではどれもショッキングで陰惨な展開と密接に絡んでいながら、最後には未来への希望につながるようなものへと反転しているということ。

 何故かと言えば、どれだけ暗い物語であってもあくまでも本作がタイトル通り「鬼太郎の誕生」を言祝ぐための作品だからだろう。

 作中の赤ん坊の「鬼太郎」へ、作品シリーズの『鬼太郎』へ、そして生誕100周年を迎えた水木しげるへ。人間か妖怪か、生者か死者かも関係なく。

 「彼」へ向けて、血塗られたオリジンの物語ながらも「生まれてきてくれてありがとう」「いつでもひどい時代だけれど、これからも一緒に生きていこう」というメッセージになっていた、そんな作品だったと思う。

 

 

奇しくも「昭和31年」創業の温泉宿にて、何かの気配を感じる……ような気がしながら

 

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参考資料

日本赤十字社HP「血液事業の歴史」

JT全国喫煙率調査

 

*1:ちなみに2023年には水木しげるの門下と言える小説家・京極夏彦百鬼夜行シリーズ十数年ぶりの新作『鵼の碑』が刊行されており、その作品の時代は昭和29年(1954年)であり、ゲ謎とニアミスした時系列だ。さらに昭和29年といえば鬼太郎と同じく何度もリブートを繰り返して現代まで続くコンテンツとなった『ゴジラ』1作目が公開された年だ。そのゴジラも2023年に最新作『ゴジラ-1.0』が公開されており……この謎のグランドクロスは覚えておきたい。

*2:そのため個人が必要以上の血液提供に走らないように報酬ありの「売血」は禁止され、無報酬のボランティアから募る「献血」が基本とされるようになる

*3:Mのモデルになったのは現実でも各国の軍隊で兵士のための覚醒剤として使用された有機化合物「メタンフェタミン」だろう(英名の頭文字はM)。合成・結晶化に成功したのは日本の薬学者で、戦後は軍保有の在庫が市場に出回り「ヒロポン」の商品名で広く知られた。また個人的には、原料や違法・合法の差異は別としても、人間を無理に働かせるための強壮剤という点では現代のエナジードリンク類もMの遠い子孫なのではないかと思っている

*4:長女の乙米と村長であり裏鬼道の頭目である長田はおそらく男女の仲だったり、次男の孝三はゲゲ郎の妻を記憶が消された中でもスケッチを残す慕っていたりと、一族の中での形式上の婚姻関係の外では確かな情愛も存在していたような余白もある。当初監督が想定していた尺であればよりはっきりとした描写になっていただろうが、話があれ以上複雑化すると主題がブレてしまったいたかもしれない……

*5:アニメ評論家・藤津亮太氏は著作『アニメと戦争』で日本の戦争の語られ方は時代とともに「状況」→「体験」→「証言」→「記憶」のように移り変わっていくという成田龍一の説を取り上げ、アニメにおける戦争の扱いもそれに連動していると書いている。その具体例として『ゲゲゲの鬼太郎』歴代アニメでの「妖花」エピソードの変遷を挙げている。そうすると今回の『ゲゲゲの謎』は、水木しげるの経験・作家性の根幹に深く絡めた物語にすることで「状況」の背後にあり「記憶」の時代である今も尚続いている近代日本の「構造」を浮き彫りにし、否応なく遠ざかっていた戦争への距離感を今一度縮める役割を果たしたのではないだろうか。

*6:しかし汽車内では少女の咳を聞いた際に一瞬だけ煙草をふかそうとした手を止め、ポイ捨て時にはその足元をカメラに映さない等、過去の時代の常識観念を改変しないと同時に現代の鑑賞者に不快感を与える構図になるのをぎりぎりで避ける巧みな演出をしている。

*7:まあさすがにPG12指定といえど子どもの体で喫煙するシーンを出すわけにはいかなかったというところだろうか

*8:ちなみにゲ謎と同じくTVアニメシリーズの前日譚であり、戦場帰りの主人公が化け物を使役する敵と対峙し自分の目に見えているものが何かを問われる物語の『UN-GO episode:0 因果論』という作品があってえ……