ケッカロン。

映画やアニメ、本のこと等。

『犬王』感想覚書:語られざるKING OF STAGE

もし これが音楽じゃなくて もしただの騒音だとしても

もし 届くなら届けよう その先の景色見届けよう

もし それが現実じゃなくて もし ただの幻想だとしても

もし 届くなら届けよう その先の景色見届けよう

(RHYMESTER - 「ラストヴァース」より)

 

以下、感想。

 

   ***

 

 自分は今年3月に『平家物語』を視聴した。言わずと知れた古典『平家物語』の古川日出男による現代語訳版を基にした山田尚子監督・サイエンスSARU制作の作品だ。

 そして、古川日出男が『平家物語』の翻訳作業の中で生み出したフィクション『平家物語 犬王の巻』をやはりサイエンスSARUが劇場アニメ化したのが本作『犬王』だ。

 権力者達の栄枯盛衰に注視して彼らの姿を「語ること」「語られてきたこと」の意味そのものをフィーチャーしたのがアニメ版『平家物語』であるのに対して、『犬王』では権力に追いやられ利用された側が「語り残すこともできなかった」ことこそを語らんとしている。

 『犬王』の冒頭が琵琶法師の語りから始まるのはあたかも『平家物語』のラストからシームレスに続いているかのようだ。この2作をセットで観ることで改めて見えてくるものがあるだろう。

 

 さて、改めて『犬王』メインの感想だが、圧巻のロックミュージカルだった。

 時は足利時代初期。平家の遺物の呪いにより盲目となった琵琶法師・友魚。猿楽一座の家に異形の姿で生まれた犬王。二人はコンビを組んで型破りな演目を披露し京の都に名を轟かせていく。

 友魚と犬王が仕掛ける「ライブ」の描写がこの映画の肝であり最大の売りだ。

 友魚は琵琶法師、犬王は能楽師ではあるが彼らの様子は時代考証をふまえた上で盛大に盛って現代のロックバンドのように描かれている。琵琶はエレキサウンドとして鳴り響き歌は荒々しくがなり立てる。犬王は特異な身体を活かして超人的に踊り狂う。そして彼ら自身の演奏・ダンス・歌唱だけでなく、そのステージに毎回大掛かりなギミックが施されているのも大事な見どころだ。舞台の床下から小道具を動かしたり大きな垂れ幕に灯で図像を投影したりと、立体的な演出の数々がそのまま映像の楽しさに繋がっている。

 それらを総合した豪華絢爛なライブパフォーマンスが観客達は観ているだけで我慢できなくなり、友魚達の煽りにコールで応えたり、自身も踊り出したりと熱狂していく。

 そうした演者と観客が一体となったライブの興奮が渾身の作画で描き出されている。このシーケンスを目撃した衝撃は今年観た映画の中でも随一だった。

 

 ……といった感じに大変素晴らしいライブ描写であり、実際自分は大いに楽しんだわけなのだが、一方でその間ずっと煮え切らなさを感じてもいた。

 友魚と犬王は京の橋で出会うなり即興で琵琶と能楽のセッションを演じ意気投合する。ここの奔放なアニメーションと湯浅監督が得意とする気の良い若者同士の交歓描写は本当に良く、「なるほどこれから二人がベストバディとして京の芸能シーンを駆け上がっていくわけだな」と観る者は期待するのだが、それからの本格的なライブになると二人が一つのフレームに収まってライブをするカットがほとんないのだ。というか、明らかに意図的に排除されている。数々のライブで琵琶を演奏し唄う友魚と踊る犬王は別々に映され、クライマックスの舞台でも犬王が単独でステージを飛び回る中友魚が一ヶ所に留まって動かない。

 勿論巧みな編集でライブはしっかり盛り上がりを以て描かれるし、ライブではない平場では彼らは同フレーム内でちゃんと友情を育んでいく。それなのにライブ中のこの頑なな分断はどういうことなんだろうと引っかかってしまい、ライブ中も頭の片隅が冷めている自分がいた。

 

 しかし本作の結末を見届けた今遡って考えると、そのアンチカタルシスにだいぶ納得がいった。

 犬王の身体の呪いは次々と解かれ友魚も充実し、彼らは時の将軍足利義満の御前でライブをするまでに上り詰める。しかし彼らの民衆への求心力が幕府の支配を揺るがすことを危惧した義満により、友魚の一座は無理矢理解散させられ、犬王は演目の肝である平家物語の異伝を語ることを禁じられてしまう。その決定にしたがった犬王と反抗した友魚はそのまま死に別れることになる。

 二人のライブパフォーマンスやその核となっていた亡霊達の声なき声は、根こそぎ権力や歴史といった大いなるものに奪い去られてしまう。

 そして数百年が過ぎた現代の夜に場面が映り、共に霊魂となった友魚と犬王が再会する。二人は初めて出会った時の姿に戻り、もう一度セッションを果たしたところで映画は終わる。

 結局、彼らがただ純粋に芸能の楽しみだけで、そして同一フレーム内で共に歌い踊ったのは、この最初と最後だけではなかったか。京でのライブの日々は「亡霊達の声を代弁するため」「犬王の呪いを解くため」「為政者に自分達を認めさせるため」といった目的・大義が常に存在していた。そしてそれは最後には奪われるものであり、だからこそそこに二人の本当に大切な瞬間を置けなかったのではないか。

 

 マスに訴えかけるためのエンタメ作品としての火力を減じてでも物語テーマの核心を保守したのを、作劇の倫理と見るか粗と見るかは難しいところだ。実際自分はこの構成により本作を100%楽しんだとは言えないが、好ましさはそれ以上にある。

 語ること、歌い踊り奏でること、何よりそれらを誰かと共有すること、何を置いてもそれを一番に大事にするよと言う作品を、嫌いになれるはずもないのだ。