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『平家物語』感想覚書:語りと祈りの端境とその領域外について

 古川日出男訳・山田尚子監督のTVアニメ『平家物語』を全話視聴した。

 制作はサイエンスSARU。

 

 自分は今まで、山田監督がその類稀なる演出スキルを存分に発揮できるのは土台に濃密で精細な作画力のアニメスタジオあってこそであり、それは京アニをおいて他にないと思っていた。だからこそ彼女が他スタジオで作品制作をすることはあまり想像がつかなかった。

 しかし今回、『平家物語』という重厚長大な軍記物である原作をサイエンスSARUの良い意味で軽やかなルックの作画を基にハイスピードで風通し良く描いていく新境地のアニメーションが実現されており、大いに認識を改めた。

 

 以下、その感想。

 

 

 平安時代末期。生まれつき未来が視える眼を持ち、途中で重盛から亡者が視える眼を受け継ぎ、この世の先と裏を見通すびわは平家一門の栄華と没落の様をその両眼に焼き付ける。彼女は彼らの生きた姿を後世に語り継ぐことを誓う。

 

 物語の要所要所では成長したびわのような姿の琵琶法師が平家物語の一節を語る場面が挿入され、それがそのまま話のナレーションの役割を果たす。

 びわの見た光景が琵琶法師の語りとなり、物語が視覚から聴覚メディアに変換されて発せられるこの瞬間に何かのメタモルフォーゼを目撃するような快楽が宿っている。オリジナルをただそのままではなくあえて別の器に入れ替えて届けることのスリリングさ、興奮。

 そして本作の語り手はびわだけではない。最終話で数多の登場人物があの一節を諳んじるように、実際に『平家物語』は無数の人々によって語られてきた。

 そのうちに細部が変容し正伝と異伝の差異も曖昧になっており、詳細な成立時期や大元の作者も今や定かでない。語りに語りを重ねて時代を超えていくこと自体が本質であるかのように現代まで失伝せずに続いてきた物語なのだ。

 そして今、古川日出男氏による現代訳を元にさらにオリジナルの要素を加えて今回のアニメ化が為され、また新たな語りが世に放たれた。その道筋に思いを馳せるだけで気が遠くなる。

 そうしたイマジネーションの飛躍を観た側否が応でも生じさせている時点で、本作が制作された意義とそのポテンシャルの達成は果たされていると言っていいだろう。

 

 また、本作には「語り」と似て非なるもう一つテーマ「祈り」がある。

 平安末期には上流階級を中心に仏教宗派の一つである浄土信仰が隆盛した。権力闘争や疫病災害に疲れ果てた為政者や貴族がせめて死後には苦しみのない浄土へ導かれるようにと阿弥陀仏に祈りを捧げたのだ。『平家物語』にもこの仏教思想が通底しており、有名な冒頭の「祇園精舎の鐘の声」からの部分はまさに仏教的無常感を反映したものだ。

 アニメ版の本作でも全般にわたって仏教への信心を示す描写が多く、清盛に翻弄された白拍子達や終わりの見えない戦乱に絶望した平氏仏道に帰依し話に表舞台から退場する様子が何度も描かれる。そして彼らのほとんどは程なくしてこの世からも去っていく。

 びわの「語り」が現実の世に後々まで残っていくのに対して「祈り」は他に行き場をなくした個人の終着点というイメージがある。

 それでも彼らが最後に仏にすがりただ祈りを捧げる道を選ぶのは、もはや自身ではどうにもならない天命への蟠りを自他の浄土での冥福を願うことに昇華するためだ。

 浄土信仰の信徒は臨終の際には手に五色の糸を握り念仏を唱えて生を終える。その糸は阿弥陀仏の手に続いており、無事に浄土へ導かれることを願うのだという。本作の最終話でやはり尼僧となった徳子が手にしていた仏像から延びる糸がまさにそれだ。ラストシーンではその五色の糸を縦に映し、カメラが降っていくにつれ琵琶の音が鳴り響いていき、その先で横向きになった琵琶の弦糸の画が挿入される。

 あの世への祈り(縦)とこの世への語り(横)が交差した時琵琶の音が最高潮に達し、『平家物語』のタイトルバックが映し出され物語は終わる。

 このラストカットの切れ味こそ京アニの時から変わらぬ山田監督の何よりの作家性だろう。

 

 対照的には書いた「語り」と「祈り」は決して相反するものではなく、個人に収まりきらないものを外部に出力してその先に委ねるという意味では同根のものだろう。

 だからこそ本作の軸を琵琶の演奏家であり仏教の一端に「法師」でもある琵琶法師が担っているのであり、EDで成長したびわ(?)の長く伸びた髪の描線が縦向きにも横向きにも変転していく様がこの二つのファクターの同一性を物語っているように思う。

 

 ただ、ここまで書いておきながら、自分が本作で最も心震わされたのは語り/祈りの構造やストーリー以上に登場人物達の何気ない仕草の描写群だったりする。第1話でびわが重盛から遠ざかろうとして身を後ろに捩る動きや、第4話で目当ての女性に袖にされるのをびわに目撃された時の資盛の呻き声等が面白おかしくて何度も観てしまう。

 物語上の出来事や科白にもならないような、語りでも祈りでも掬い取りきれない、彼らのミクロな生きた証。それこそがびわが本当に後に残したかった記憶であり、そもそも本来は存在しないオリジナルキャラであるびわ自身を通じて山田監督はじめ制作スタッフが原典の向こうに見出そうとしたモノではなかったか。これは鶏と卵の順番の話のようになるが、そうした数々の余白を描くには映像と音を両輪で行使できるアニメーションという媒体と繊細な方向性の演出を何より得意とする山田監督が最適だったのだろう。

 

 語りと祈りを克明に描くことで、むしろそこに回収しきれない何かをこそはっきりと浮き上がらせた本作を傑作と呼ぶのに躊躇いはない。