ケッカロン。

映画やアニメ、本のこと等。

最近観た映画

単発の作品記事以外にも、短評程度の観た映画の覚え書きも載せていこう。

劇場でなく円盤や配信で観た作品、厳密には映画じゃない作品の方が多いですが。

 

 

・『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』

 

 2016年の『この世界の片隅に』の時と同じく、やはり涙腺めっためたにされた。

 前作に新規カットを織り交ぜ、大筋は同じながらも別の(あるいは真の)物語になっていく様はヱヴァ序・破を想起させる。この世界の片隅に新劇場版。

 劇中で「過ぎたことや選ばなかった道は覚めた夢と変わらない」と周作は述懐するが、逆に言えば無数の選択肢の上に成り立ちIFの鏡像が不意に顔を出すこの現実はいつ覚めるとも分からない夢のようなものだ。その境は非常に薄く不確かであることを、白木リンというすずに対置されるキャラが切実に証明している。

 前作で環境や身体的損傷によって揺るがされていたすずのアイデンティティは、今作ではさらに存在そのものの代替可能性で脅かされる。それをふまえての周作との喧嘩や情交はより深い意味をもって映し出される。

 自分は世界の唯一の中心ではなく無数の片隅にいること。しかも、その状況に置かれていることすらもすずだけではないことを本作は徹底して描く。周作と水原、晴美と久夫、径子とすず、北條家と浦野家、そして戦災で行方不明の身内と別人を間違える人々……。

 誰もが誰かの代用品であること。静かな絶望として描かれてきたそれは、しかしラストに一つの救いとして機能する。喪失そのものが別の喪失を埋めるピースとなり得る。そしてエンドロール終わりのカットに示されたさらにもう一つの「補完」にトドメを刺された。

 もう夢想するしかない繋がりに拍手を。

 

 

・『男はつらいよ お帰り寅さん』

 

 開幕で展開される意味不明過ぎのドラッギーなOPにこれは大変なものを観にきてしまったぞとなるも、本編には順当に感慨深くさせられて安心(?)した*1。「お帰り」というタイトルに反して、やはり寅さんの不在をどうしようもなく再確認してその残響に聴き入る究極のセンチメンタル映画。

 冒頭が法事の場面からだったように、本作そのものが渥美清の、ひいては『寅さん』シリーズ自体の法事なのだ。葬式というほどには故人の記憶がもう生々しくなく、いくらか笑顔とともに振り返ることができて、でも最後にはしんみりしてしまうという塩梅。

 劇場にはリアルタイムの寅さんファンと思われるお年寄りの方がぽつぽつといらっしゃって、映画の笑い所泣き所で的確に声をあげておられた。これ込みで当時の再現・追体験だなと思った。映画も観客へお帰りとさよならを告げていた。

 しかし実感したのは渥美清という役者のたぐいまれなコメディの才能。科白や所作に一つの無駄もなく笑いのツボを突く様はほとんどアクションスターだった。メロンのくだりの辺りは若い観客もゲラゲラ笑ってた。

 単に過去作そのままリバイバル上映してもまた十分当たると思う。

 

 

 以下の作品はDVDや配信での視聴。

 

・『パンとバスと二度目のハツコイ』

 

 去年『愛がなんだ』で初めて今泉力哉監督の作品にふれて、「科白」「言葉」への距離感がちょっと衝撃だった。

 言葉とそれによる交流をクローズアップして描くものの、同時に言葉の力の限界や無意味さも浮き彫りにする。登場人物達が言葉を交わす場面が全て「彼らは本当に通じ合っているのかどうか」という空々しさ一歩手前のスリルに満ちていて、何じゃこりゃとなった。

 それはやはり本作も同じで、通じ合っているようで通じ合っていない人物達の織り成す日常が何ともいじましい。クライマックス(と呼んでいいのか?)の絶叫合戦なんかその極地で、いたたまれなさの波状攻撃だった。

 勿論、映像や役者の演技も素晴らしかった。アスペクト比をいじった椎名桔平みたいな彼、良い味出してるな~と思ったらLDH! やはりあそこはいい男が集まってるんだなあ。

 

・『百日紅

・『眩 北斎の娘』

 片や原恵一監督作の2015年アニメーション映画、片やNHK制作のTVドラマ。どちらも葛飾北斎の娘・葛飾応為の生涯を描いた作品。

 話も作風も異なるのだけれど、それでも主人公・応為その人は共通して意思が強く複雑な内面の女性として描写されている。それくらいに彼女の(史実・創作合わせた)人間性が強烈だったんだろう。

 二作とも純粋に作品として傑作だったし、今の時世だからこそ再評価の流れ来てると思うなあ。

 あと、FGOの応為はいつうちのカルデアに来てくれるんですか??? 

 

 

 

*1:いやホントにあのOP何だったんだ? 企画会議で何かヤバいもの焚いてた??