本記事は、タイトル通り『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』の鑑賞直前と鑑賞後の考えたことを記録した断続的な備忘録です。
感想というには自分の思いをまとめきれていないし、まして考察や評論と呼べるような論理性もありません。本当にただの記録です。
また、シンエヴァ以外の作品への言及もあり、お笑いライブ『明日のたりないふたり』のネタバレも含まれていますのでご注意ください。
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もたもたしていたらあっという間に話数がたまってしまったので、5話・6話まとめて感想。
続きを読む 『UN-GO』。
『明治開化 安吾捕物帖』を原案として、2011年10月~12月にかけてフジテレビの「ノイタミナ」枠で放映されていたTVアニメーション作品。TV本編の前日譚となる『UN-GO episode:0 因果論』も同時期に期間限定上映されていた。
このTV本編11話+中編OVAのシリーズが、放映から9年目になる今も大好きなのである。
前ブログでは2012年頃に各話レビューを書き、その後も補足のブログ記事を書いたり評論同人誌やWEB企画に作品考察を寄稿したりしてきた。そして今また同じく『安吾捕物帖』を原作に据えた実写ドラマ版が制作発表されたことに大いに刺激を受け、改めて本作の各話毎の感想記事を書きたいという意欲が出てきている。
そうしていると、ふと物語の舞台となっている「新宿」と作品の関係はちゃんと考えたことがなかったなと気づいた。
まずはここから始めてみようと思う。
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『UN-GO』の主人公・「結城新十郎」は、ある人間に取り憑いた化け物「因果」を助手として活躍する私立探偵だ。彼らの生きる近未来の日本は内戦テロに事実上敗戦し、その傷跡も生々しく社会は今だ混迷のただ中にある。新十郎は日本を牛耳るメディア王・「海勝麟六」に立ち向かい、彼がいつも美談として処理しようとする事件の真実を解き明かしていく。
そして新十郎が探偵業の拠点としているのが新宿だ。まさに内戦テロの標的地にされ立ち入り禁止区域となった新宿の大型書店跡地を探偵事務所として、舞い込む依頼に応対し事件現場に出向いていく。
そんな新宿という舞台は、『UN-GO』の物語の中でどのような意味を持つのか。
新宿を含めた東京都・関東地方の歴史は旧石器時代にまでさかのぼることができる。板橋区茂呂町の関東ローム層の土壌から黒曜石製石器が出土しているのだ。そこから縄文、弥生時代にかけても100か所以上の遺跡が発掘されており、海浜部から多摩川・利根川の流域まで広く集落が分布していたことが分かる。
一方で日本史上は戦国時代までは首都から遠く離れたいち地方であり、地勢的に大きな変革はなかった。
しかし江戸幕府が開かれ政治・文化の中枢が関東に据えられることになると、徳川家康が主導する大公共工事時代に突入する。浅海地帯だった神田~新橋は、駿河台を切り崩した土によって埋め立てられ、隅田川には橋がかけられそこから深川・本所方面も開発される。神田・玉川は大規模な水道工事が実施され、江戸全域に水がひかれるようになる。ちょっと調べただけでもこれで、徳川家康のイメージが戦国の覇者から公共工事キチおじさんになった。未開の地を切り拓くことにとてつもない快感を覚える変態だったんじゃないか?
脱線した。
そうした関東開拓の歴史の中に新宿もある。
東京都の中心から西より、武蔵野台地と江戸低地の刃境にあるこの地区は、かつては牛込郷という人里もまばらな荒野だった。
江戸が拓かれ中心部に住居が次々と作られると、密集した木造住居は火災を頻発させるようになる。中でも明暦の大火は被害が甚大で、これをきっかけとして防火対策が本格化する。その一つが、江戸中心の住居密度をさげ被害を分散させるための屋敷・寺社の郊外移転だ。
その移転先に牛込郷を中心とした地域も選ばれた。膨大な人・家・施設な牛込や四谷の地区に流入し、農村だった全域の半分が宅地化した。そして宿場町である「内藤“新宿”」も開設され、一気に土地は活性化していく。
宿場町というのは人が行き交う要所であり、経済発展と同時に歓楽街化の宿命も抱えている。内藤新宿も例にもれず風紀取り締まりで一度は廃止されるが、田沼政治の消費拡大路線の中で再開を果たしている。この頃から現代にまで続く新宿の夜の街の側面が出来上がっていたわけだ。
明治になって郡区町村編成法で区画統合されても江戸時代からの住宅街と農村が隣り合わせになった地理は続いていたが、明治18年以降の甲武鉄道開通以降は人口が急増し、残っていた農村部もどんどん市街化していく。
そして大正12年の関東大震災。東京全域が大打撃を受けたが、牛込や四谷の辺りは被害が軽微だった。要因としては、沖積低地でもろい地盤の東京東部・南部に比べると牛込・四谷の位置する武蔵野台地が地質的に強固であったことが挙げられる。そこから東京西部へ人々が移り住む流れが生まれ、新宿となる地はさらに発展していくこととなる。
第二次世界大戦末期の空襲でも牛込・四谷はほぼ焼け野原になったが、やはり復興は早かった。敗戦直後にも闇市が立ち並び経済が回っており、民間主導の興行街化が進んだ。
そして昭和22年、牛込・四谷・淀橋が合併していよいよ「新宿区」が誕生した。昭和25年の東京産業文化博覧会開催やゴールデン街の発足等で弾みをつけて、今の新宿の姿に続いていく。
こうして新宿の歴史を概観していくと、そこが常に災後・戦後の人々の受け皿の役割を果たしていたことが分かる。人を引き寄せる磁場のようなものが宿る土地だったのだ。そこから東京の副都心と呼ばれるまでに発展していった。
そしてそんな街だからこそ、作中世界の状況の発端である内戦テロの標的にもなったのだ。世界観設定が詳細に描かれた小説版『UN-GO 因果論』では、内戦テロは通信インフラの遮断を目的として行われたとある。ネットサーバーや国際電話ケーブル、携帯電話会社の本社が狙われており、新宿を代表する建造物でもあるNTTドコモ代々木ビルがテロによって倒壊する場面が劇中でも描かれている。
このように、人間の生命力と混沌を象徴のようであり、物語の起点となりうる要素も満たした場所だからこそ、近未来戦後の混迷した社会を描く作品の舞台としてはうってつけだったのだろう*1。
さらに劇中では、立ち入り禁止区域となった新宿駅跡地に新十郎と因果だけでなく他の社会からのはぐれ者と思しき人々も多く不法定住している様子がある。新宿の歴史の再演として非常に説得力がある。
物語のラストでは、瓦礫が片付け工事が始まり少しずつ街が復興していく様も描写される。これもまた新宿という街の活力の表れだ。そして、その先にはおそらく新十郎をふくめそこを根城としていた人々も立ち退かされてしまうのだろうという切ない予感もある。
一度は堕ち、しかしいずれ再び再起していく街。それは『UN-GO』の原案作者である坂口安吾の唱えた「堕落論」の論旨を表現しているかのようでもある。
『UN-GO』という作品のロケーションの確かさに改めて感じ入った。
そして現実の2020年では、パラレルの近未来で探偵事務所が開かれるはずの某大型書店は洋書フロアを残して閉店寸前になっている。
フィクション世界への架け橋はやはり儚いもののようだ。
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参考資料
・人文社『郷土資料事典13 ふるさとの文化遺産 東京都』
・このまちアーカイブス東京都新宿 https://smtrc.jp/town-archives/city/shinjuku/index.html
日向の飽くなきアグレッシブさが合宿メンバーにも伝播し、居残り自主練という切磋琢磨につながっていく。
そして今回日向が得て周りに伝えた学びが、忙しないラリーの中でもゆっくり高いレシーブをすることでプレーに余裕を作るという「楽」なのも面白い。
ガンガン前のめりなプレースタイルの日向が、一見それに反するような保守的なテクニックを手にする。しかし、前回の「スプリット・ステップ」も同じく、全てはそこで生み出されるゆとりをバネにより自在に動くという目的のために他ならない。
さらに今回アニメならではの演出で白眉だったのは、疲弊した百沢が日向に「お前が選ばれれば良かった」と口にしてしまった場面。
失言を後悔する百沢のモノローグと並行して日向をカメラが下からパンして映していく。百沢視点の重い雰囲気に反して、いざ映し出された日向の表情はコミカルなもので、さらに彼らしい陽性な発言で緊張は解れる。しかし日向の顔がフレームインしてすぐにおどけた仕草をするまでのゼロコンマ数秒ほどの一瞬、目を見開いた無表情の彼が映りこんでいる*1。
こういうほとんどホラーのような演出は原作に時折あるもので、それをアニメオリジナルで入れ込んできたのは本当に原作理解度が高いことの証明だろう。
一方、影山はユース合宿の中でも存在感とプレーの冴えを発揮し、彼に目をつけた強豪達を無自覚に煽りつつ彼らと交流していく。しかしその中で宮侑にスパイカーの要求にしっかり応えてみせる自分のプレーを「おりこうさん」と称され、ただならぬ蟠りを抱えることになる。
合宿の正規メンバーであり最初は高揚していたが、直面した自分の課題をつかみかねる影山。すでに好循環を手にしつつある日向とは対照的に、彼の正念場はここからなのだ。
それにしても、「ボール拾い」も「楽」も「おりこうさん」も全てはやがて来たる稲荷崎戦への伏線だったことをふまえて今回を観ると、とても感慨深い。
*1:恐怖映像番組なら巻き戻し&スロー再生で「お分かりいただけただろうか……」ってナレが入るやつだよ。
厳しい現実を味わった末に、「何ができるかを探す」という方向性を得た前回のラスト。
そして今回はサブタイが表す通り、前回にもまして日向の「目」が何を見るのかを克明に描くエピソードだ。
できることを探すために、全体を見渡すことを欲する日向。そこから繋げて洗濯もの干しがてら高所から練習風景を俯瞰する場面を入れることで、日向の視点が文字通り一段階上のステージに上がったことを示す。
そして彼の目に映るのは目の前の光景だけではない。選抜メンバーのプレーに注目しつつ、自分ならどう動いてきたか、烏野チームメイトのプレイや言動、さらには何年も前の記憶からも比較参照できるものを引っ張り出して、眼前の情報とかけ合わせて自分の学びに変える。
日向の視野が空間的にも時間的にも拡がっていく、静かなダイナミズム。
そうして得たものを見様見真似でボール拾いに活かそうとするが、最初は当然自分の体を上手く操れずに失敗が続く。しかしそんな試行錯誤の末に研ぎ澄まされた思考が徐々に反応速度や所作に表れ始め、日向に彼なりの達成感を与えていく。
そして、日向のラーニングは後の場面で「何を食べたらいいか」というコーチとの問答に置き換えて反復される。「学ぶ」という理性的行動と「食う」という本能的行動が同列になっている日向の特異性を一発で分からせてくる。
そんな彼の貪欲さにいよいよ周りが感化され始め*1、本来日向と正反対の小食派で向上心とも無縁に見える月島が彼に声をかけるところで終了。
本当に、原作の巧みさを毎回思い知らされるアニメ化だ。
また作画面で言うと、合宿の一員が「スプリット・ステップ」を実行した時の浮遊感のある軽やかな足捌きとその直後のどっしりした身体の沈み込みが、日向が獲得したいモノとしての説得力を与えていて芸コマだった。
あと、本作のEDで今更気づいたこと。
コーチ、監督、マネージャー、OB後援会等々、烏野排球部を支える人々を描いていった末に、体育館を去るメンバーをボール越しに映すラスト。「メインキャラ達を支える裏方達をボールが見ている」ということだったんだなあ。エモ。
*1:元から日向を合宿メンバー候補に挙げていて合宿中も日向の素質と変化をいち早く感じ取った穴原監督は、鷲匠監督に負けず劣らずの相当な慧眼なんだよなあ。
単発の作品記事以外にも、短評程度の観た映画の覚え書きも載せていこう。
劇場でなく円盤や配信で観た作品、厳密には映画じゃない作品の方が多いですが。
・『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』
2016年の『この世界の片隅に』の時と同じく、やはり涙腺めっためたにされた。
前作に新規カットを織り交ぜ、大筋は同じながらも別の(あるいは真の)物語になっていく様はヱヴァ序・破を想起させる。この世界の片隅に新劇場版。
劇中で「過ぎたことや選ばなかった道は覚めた夢と変わらない」と周作は述懐するが、逆に言えば無数の選択肢の上に成り立ちIFの鏡像が不意に顔を出すこの現実はいつ覚めるとも分からない夢のようなものだ。その境は非常に薄く不確かであることを、白木リンというすずに対置されるキャラが切実に証明している。
前作で環境や身体的損傷によって揺るがされていたすずのアイデンティティは、今作ではさらに存在そのものの代替可能性で脅かされる。それをふまえての周作との喧嘩や情交はより深い意味をもって映し出される。
自分は世界の唯一の中心ではなく無数の片隅にいること。しかも、その状況に置かれていることすらもすずだけではないことを本作は徹底して描く。周作と水原、晴美と久夫、径子とすず、北條家と浦野家、そして戦災で行方不明の身内と別人を間違える人々……。
誰もが誰かの代用品であること。静かな絶望として描かれてきたそれは、しかしラストに一つの救いとして機能する。喪失そのものが別の喪失を埋めるピースとなり得る。そしてエンドロール終わりのカットに示されたさらにもう一つの「補完」にトドメを刺された。
もう夢想するしかない繋がりに拍手を。
・『男はつらいよ お帰り寅さん』
開幕で展開される意味不明過ぎのドラッギーなOPにこれは大変なものを観にきてしまったぞとなるも、本編には順当に感慨深くさせられて安心(?)した*1。「お帰り」というタイトルに反して、やはり寅さんの不在をどうしようもなく再確認してその残響に聴き入る究極のセンチメンタル映画。
冒頭が法事の場面からだったように、本作そのものが渥美清の、ひいては『寅さん』シリーズ自体の法事なのだ。葬式というほどには故人の記憶がもう生々しくなく、いくらか笑顔とともに振り返ることができて、でも最後にはしんみりしてしまうという塩梅。
劇場にはリアルタイムの寅さんファンと思われるお年寄りの方がぽつぽつといらっしゃって、映画の笑い所泣き所で的確に声をあげておられた。これ込みで当時の再現・追体験だなと思った。映画も観客へお帰りとさよならを告げていた。
しかし実感したのは渥美清という役者のたぐいまれなコメディの才能。科白や所作に一つの無駄もなく笑いのツボを突く様はほとんどアクションスターだった。メロンのくだりの辺りは若い観客もゲラゲラ笑ってた。
単に過去作そのままリバイバル上映してもまた十分当たると思う。
以下の作品はDVDや配信での視聴。
・『パンとバスと二度目のハツコイ』
去年『愛がなんだ』で初めて今泉力哉監督の作品にふれて、「科白」「言葉」への距離感がちょっと衝撃だった。
言葉とそれによる交流をクローズアップして描くものの、同時に言葉の力の限界や無意味さも浮き彫りにする。登場人物達が言葉を交わす場面が全て「彼らは本当に通じ合っているのかどうか」という空々しさ一歩手前のスリルに満ちていて、何じゃこりゃとなった。
それはやはり本作も同じで、通じ合っているようで通じ合っていない人物達の織り成す日常が何ともいじましい。クライマックス(と呼んでいいのか?)の絶叫合戦なんかその極地で、いたたまれなさの波状攻撃だった。
勿論、映像や役者の演技も素晴らしかった。アスペクト比をいじった椎名桔平みたいな彼、良い味出してるな~と思ったらLDH! やはりあそこはいい男が集まってるんだなあ。
・『百日紅』
・『眩 北斎の娘』
片や原恵一監督作の2015年アニメーション映画、片やNHK制作のTVドラマ。どちらも葛飾北斎の娘・葛飾応為の生涯を描いた作品。
話も作風も異なるのだけれど、それでも主人公・応為その人は共通して意思が強く複雑な内面の女性として描写されている。それくらいに彼女の(史実・創作合わせた)人間性が強烈だったんだろう。
二作とも純粋に作品として傑作だったし、今の時世だからこそ再評価の流れ来てると思うなあ。
あと、FGOの応為はいつうちのカルデアに来てくれるんですか???
*1:いやホントにあのOP何だったんだ? 企画会議で何かヤバいもの焚いてた??
合宿に乗り込んだものの当然のように練習には参加できずボール拾いをするしかない日向。周りに置いていかれまいと意気込んだ結果の行動が、その現実を余計に厳しく思い知らされる。
それでもできること得られるものはないかと必死に探す彼の「目」を印象的に描いた回。
練習風景を見守る目、指導者や先輩から叱咤・慰めに潤む目、苦悩に歪みぎゅっと瞑る目、「できることを探す」という方向性を定め暗闇の中で光る目。時にコミカルなタッチで、ここぞという時にはエフェクトやゆらぎで加工して丹念に描かれる日向の目。
そしてラストはあえて日向の後ろ姿を映すアングルで終わることで、彼は今どんな表情を、目つきをしているのかを視聴者に否が応でも想像させる*1。うーん、上手いなあ。
日向に対する周りの反応も「目」を軸に描かれていた。鷲匠監督の影をつけた炯々とした目は勿論、牛島の「それでお前は何をやっている?」の科白とともに日向の脳裏に焼き付いた視線、ラストで日向の変調に気づいて目を細めるサトリ等。
4期からの佐藤雅子監督ならではの作品性というのはまだ掴みきれないんだけど、少なくとも原作の切れ味をさらに研ぎ上げて面白いアニメにしていることは間違いない。特に、人物の位置関係演出はすごく盤石なものを感じる。
これが試合回でどう爆発するのか、楽しみ。